波が去ったあとに、時おり可憐(かれん)な貝殻を濡れた砂に置いていったりします。人との出逢いのあとには、必ず想い出が残されます。
たとえ傷つけ合った別れでも、想い出のなかでは美しかったことや、なつかしかったことが渚の桜貝のようにちりばまられているものです。
生きるとは、人に出逢い、やがて別れていくこと。限りなくくり返し渚に打ち寄せ、去っていく波の動きに似ています。
恋は錯覚の上に咲く花にすぎません。女は恋人の上に理想の男性の仮面をかぶせ、ほんとうの恋人と思いこんで身をやいていきます。
その仮面がはずされたときに見いだすのは、自分が捨てた男と大差のない男、あるいは、はるかに価値のない男かもしれません。
それでも誤った恋はしないほうがましとは、だれもいいきれないでしょう。女は恋することで、自分を発見していきます。
愛されることによって自分を深め、愛することによって、知恵がつきます。そして恋に悩んだ女とそうでない女のちがいは、他人の不幸に対して思いやりが深いか浅いかにあらわれてくるのです。
夫や、子供や、両親や、愛した人のために、わたしがしてあげている、尽くしていると思うと腹が立ちます。
私が好きでしている、好きだから勝手に尽くしていると思ったら腹はたちません。ほんとうは好きでさせてもらっているのです。
世の中には、尽くしたくても尽くす相手がいない人がたくさんいます。結婚したくてもいい相手にめぐり逢えない人もいれば、結婚相手がすぐに亡くなった人もいるでしょう。
何かをさせてもらえる、尽くす相手がいるというのは幸せなことです。
祈るということは、自分を生まれたての赤ん坊のように無心にし、ひれ伏し、身をなげだすことです。
たとえひれ伏している真上から刀を振り下ろされても悔いないという絶対の信を得るために、人は祈るのです。
世の中には祈るしかない、ということがあります。苦しいことが襲ってきて、どうしたらいいかわからなくなったとき、わたしたちは思わず、「助けて下さい」とさけぶ。自然に手を合わせます。
わたしたちは、自分の力が大したものではないことを本能的に知っています。自分の力ではどうしようもないことが、この世にあることを感じています。
わたしたちは最後には祈るしありません。一生懸命努力して、そのうえはもう、神様、仏様のはからいに任せるしか手はないのです。
そして祈りは、虚心になって行えば、必ずかなえられるものなのです。