しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

役行者

2023年10月06日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市林  五流尊瀧院 

 

役行者(えんのぎょうじゃ)は、役小角とも呼ばれ、山伏の祖とされる。
修験道と古代の呪術師で各地に伝説が残る謎が多い人。
7~8世紀に大和を中心に活動したようだ。

 

 

「鴨方町史・民俗編」 鴨方町  昭和60年発行

山伏

山上様(行者様)
山上様とは、本来、奈良県吉野郡にある大峯山系の山上ヶ岳を意味するものであるが、
普通は、
修験道の開宗といわれる役小角(えんのおずぬ)を指す。
鴨方町あたりからもこの山上ヶ岳に登拝する風習が、江戸時代には存在した。
また、町内の各地に役小角を祭って山上様と称し、
山上様の祭られている堂を山上堂(行者堂)ともいった。
町内には、山上講をいまも続けている地区もある。

・・・

 

・・・


「新修倉敷市史第八巻自然・風土・民俗」 倉敷市 1996年発行

修験の里

山伏の宗教を修験道(しゅげんどう)という。
伝説では7世紀末から8世紀初頭の人・役行者(役小角)を開祖とするが、
実際は日本古来の山岳信仰と平安初期に唐より伝来した密教(呪術的仏教)が融合して成立したものである。

・・・

 

 

撮影日・2023.10.5

 

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禅海和尚

2023年10月06日 | 銅像の人

場所・大分県中津市本耶馬渓町曽木 青の洞門

・・・

大分県HP

青の洞門/禅海和尚

天下の名勝・耶馬溪にあって羅漢寺とともに四季を通じて訪れる人の絶えないところであるが、
ここには時の流れを超えて後世に語り継がれる物語がある。
「江戸で人をあやめた禅海が、諸国巡礼の途中、この地で鎖渡しの難所に苦しむ人々を見て隧路開さくを決意。
風雪にも、嘲笑にも屈することなく、大岩盤に挑むこと30年、ついに洞門を完成させる」。
大正8年、菊池寛が小説「恩讐の彼方に」のモチーフにも使った禅僧海の物語である

 

 

・・・

「恩讐の彼方に」  中央公論 菊池寛

心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋びた老僧を見ていると、
彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。
敵を討つなどという心よりも、
このかよわい人間の双の腕によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。
彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。
二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。

 

・・・

撮影日・2007.5.4

 

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屋上ビアガーデン

2023年10月06日 | 失われた仕事

ビアガーデンは楽しいが、自分から行ったことはない。
一人で行くところでなく、二人でも行くところではない。
最低三人は要るような気がする。
行くのは誘われたり、会の行事等で利用していた。

利用がいちばん多いのは福山駅屋上サントークのビアガーデン。
飲酒運転が厳しくなってからは、
お酒を外で飲むは駅から近い店が条件となった。

独身のころ、
鹿児島市の宇宿町というところに住んでいた時、
夏の夜は毎晩、ビアガーデンに行っていた。
宿舎の近くにビアガーデンがあった。
近くといっても歩く距離でなく、車で5分くらいの距離。
3~4人で車で行って、車で戻っていた。
当時はまだ宿舎に冷房というものがない時代で、ビールを飲まないと寝られなかった(←ほんと)。
宇宿町にあるそのお店は、小さな三階建てのビルで、その屋上に小さなビアガーデンがあった。
ビアガーデンの明かりも小さくで、ほの暗かった。
生暖かい夜風に吹かれながらビールを飲む。
何杯か飲んだ後、気持ちよく、警察がいない裏道を通って帰っていた。

その頃は、どんな小さな町でも飲食ビル屋上には提灯がぶらさがっていた。
今は天気に関係のないビアホールが主流になっているようだ。
福山駅サントーク屋上ビアガーデンも、とうの昔廃止されてしまった。

・・・

・・・

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

仕事帰りに、ビルの屋上で、キンキンに冷えた生ビールをあおる極上のひととき。
「ちょっと寄っていくか」が屋上ビアガーデンの楽しみだった。
屋上ビアガーデンが人気を博したのは昭和40年代前半まで。
まだ家庭内にエアコンが普及してない時代である。

・・・

 

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アイスキャンデー売り

2023年10月05日 | 失われた仕事

一年で一番暑い夏休みの盆の前後ごろ、
茂平にも「アイスキャンデー屋」が来ていた。
笛をピーピー吹きながら、自転車に旗をなびかせてやってきた。
あの音が楽しかった、というか親に期待したい時だった。
アイスキャンデー屋が来る2~3回に1回ほど、親がアイスキャンデーの金をくれた。

おじさんが自転車を停める頃は、もう客(子ども)が先におじさんを待っていた。
夏休みなので、親戚を訪ねている見慣れない子がきていて、大阪弁や東京弁を生で聞くことがあった。
言葉の他に、服装や、しぐさが茂平の子とは全く違っていた。
その時は、茂平はほんとに日本の地の果てかと、みじめに思った。

自転車の荷台に四角な木箱を置いていて、その中にアイスキャンデーが入っていた。
お金を出して食べるおやつ類は、どれも、なにも、みなおいしかったが
夏のアイスキャンデーは特においしかった。
粗末な氷の冷蔵庫の箱から出してくれるアイスキャンデーは、
その時、すでに溶けかけていた。
吸いながら食べた。
甘くて色粉がいっぱいのアイスキャンデーだった。

 


・・・
「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

アイスキャンデー屋


自転車の荷台に木箱が置かれ、
蓋を開けると、基盤の目状の枠の中に棒付きのアイスキャンデーがはいっていた。
アイスキャンデーは夏の風物詩であった。
午後1時から3時までの間に、アイスキャンデー屋がやってくる。
粗悪な色素・香料が使われ、
雑菌の入った水で作られていたので腹をこわすこともあった。
売り子は麦藁帽子を被った中年以上の年配の男女が多く、
季節仕事でもあり
収入も安く、専業は多くなかった。

・・・


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

 

アイスキャンデー売り

自転車の荷台に大きな木箱を乗せ、のぼりを立てて、チリンチリン。
昭和の夏の風物詩、アイスキャンディ売りの全盛期は、
実はそれほど長くない。
当時のアイスキャンディは、
ズルチンやサッカリンのどの人工甘味料、または果汁で味付けした水を試験管のような器具に入れ、割りばしを差し込んで凍らせたものだ。
多くは赤や青であざやかに着色されていた。
1950年代後半から強力なライバルが登場する。
雪印、森永、協同乳業などの大手メーカーがアイスクリームや水菓の大量生産を始めたのだ。
駄菓子店や食料品店には冷蔵庫が普及し、
カップアイスや棒アイス、シャーペットなどが安定的に供給できるようになった。
喫茶店ではソフトクリームが新商品として流行した

こうしたライバルの台頭を受けてアイスキャンディ売りは規模を縮小していく。

・・・

 

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かき氷

2023年10月05日 | 失われた仕事

かき氷ほど食べたいものはなかった。
かき氷を食べる時ほど、うれしい時はなかった。

わが人生で10回くらいだろうか?かき氷を食べたのは。
大門駅前の店で5回くらい、
笠岡駅前の店で3回くらい、
茂平の番屋で2~3回くらい。

真夏で、店内は開けっ放し。
小さな扇風機がまわっていた。
木製のテーブルとイスがあり、座ってから注文をする。
「イチゴ」、というのが決まり。

お店の人が氷機に行くと、
「ガリガリ」という氷を締めて固定する音がする。
次に、「シャリシャリ」と氷が切れてガラス容器に落ちる音がする。
半分ぐらい氷の山ができると、ハンドルをゆっくりまわして、慎重に富士山の形に整える。
氷の山が完成すると、真っ赤な液(シロップ)を氷の山頂に振りかけて完成。

自分の前にあるイチゴのかき氷はさじで食べる。
山の上から食べる、
この時注意しないと山が崩れ、すこしテーブルに氷が落ちることがある。
半分食べたら、残った氷をつつき冷たいイチゴ水にする。
それをさじですくって飲み、
最後は容器を手にして飲み干す。
料金を払って店から出る。

・・・

 

「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行

かき氷は夏の風物詩
かき氷は夏の風物詩だった。
氷屋のおじさんがハンドルを回すと「シャリ、シャリ」と見る見るうちに氷が新雪のような山となり、涼しさが伝わってくる。
赤いイチゴのシロップをかけてもらって、一口食べると、ツーンとおでこが痛くなった。

 

・・・

社会人になってからのこと、
夏に歩いていたら暑くて喫茶店に入った。
たまたまかき氷があったので注文した。
かき氷はモーターで完成、
きき氷には金時や濃いミルクや果物をカットしたものが乗っていた。
それがかき氷を食べた最後になった。

・・・

 

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金魚売り

2023年10月04日 | 失われた仕事

金魚売りは夏に、毎年来ていた。
天秤棒に担いで、一軒一軒歩いていた。
その金魚売が家に来ると、なぜか嬉しい気分になった。

金魚とガラス製金魚鉢を売っていた。
金魚にも種類があり、
だいたい、
奇麗な金魚は高く、長持ちしない。
メダカを大きくしたような金魚は安く、長持ちする。
という、子供にもわかる傾向があった。
出目金(でめきん)が一番人気で、一番高かった。

では安価な金魚が長持ちするか?
と言えば、そうでもなかった。
たいてい、持って夏休みの終わりまでだった。

親が買ってくれた金魚は、
金魚鉢に入れ、
まず裏の溜池に行き、そこでホテイ草を取ってきて金魚鉢に浮かべる。
(エサは味噌汁に入れる)「ふ」。
「ふ」を小さくちぎったり、そのまま水面に浮かべていた。
金魚鉢の水は毎日、井戸水で取り換えていたが、
日に2~3度取り換えたかと思えば、何もしない日があった。
そして、
一匹死に、
二匹死に、・・・
ついには、夏の終わりに金魚ゼロ。
金魚鉢を倉にしまう。
翌年夏、倉から金魚鉢を出す。
それが少年の日の金魚売りと金魚の想い出となっている。

 

・・・


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

金魚売り
金魚売りは、ある時期まで日本の夏の風物詩であった。
天びんにいくつもの金魚鉢を乗せて、担いで売り歩いた。
東京・愛知弥富・大和郡山・熊本長を中心に全国で飼育され、
大勢の行商人が3月ころから10月ごろまで津々浦々を売り歩いた。
太平洋戦争でいったん壊滅的打撃を受けるが、すぐに復活し、
行商だけでなく、露店売りや縁日の金魚すくいでも人々に愛された。
金魚売りは高い技術が必要な仕事で、
売り声の出し方、
運び方、
金魚の健康状態の見分け方必要。

1970年代に入ると金魚売りは衰退していく。

ペットショップや花屋が金魚売を始めたり、熱帯魚ブームが起こったりした。
伝統芸として、金魚売はほそぼそと続けられている。

 

・・・


「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行
金魚売りは初夏の風物詩
初夏になると、「キンギョー、キンギョー」と張りのある声が通りに響く。
金魚売りは初夏の風物詩だった。

・・・

 

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浜子② ~朝は朝星、夜は夜星~

2023年10月04日 | 失われた仕事

岡山県の特産品であった藺草は、真夏にイ草を刈るが、
その作業は「日本一の重労働」と言われていた。
しかしイ草刈は10日間程度で終了する。

同じく夏が盛りの塩田作業は、夏を挟んで春から秋までつづく。
となれば浜子が「日本一の重労働」だったのだろうか?

瀬戸内海海岸線の平地、そのほぼすべてが塩田だったが、
その跡形は住宅地の中にポツンと堤防が残る程度で、意識してみないと見落とす。
岡山平野のほぼすべて栽培されていたイ草に至っては、今では何一つ残らない。

 

・・・


「瀬戸内の風土と歴史」 谷口澄夫 山川出版社 昭和53年発行

十州同盟

元禄頃から製塩業は異常な隆盛をみた。
しかし生産過剰を招いた。売値が下がった。

こうした塩田不況の対策として考案されたのが休浜法である。
日が短く塩つきの悪い秋冬の間、
塩田作業を休むことによって生産制限と経費の節減をはかる方法である。
安芸・備後の同業者が10月から翌年1月まで4ヶ月の間休む休浜協定を成立させた。
その後、播磨・備前・備中・阿波・防長・伊予が参加し、
讃岐がもっとも遅れて安政(1855前後)に加わった。
これは明治7年までつづいた。

・・・

 

「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行


塩田に働いた人々

毎年梅雨が晴れてから、秋の稲刈り頃まで最も作業が忙しかった。
「朝は朝星、夜は夜星」。
朝4時に起きて裸足に露を踏んで朝浜を引きに塩田に出る。
万牙(まんが)といって24本の爪付きのT字形の重い道具を傾けて塩田に撒かれた砂を掻く。
広い塩田の隅まで紋様ができる。
太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦・横・斜三様の引き方で砂についた海水の濃度を高くする。
熟練を要する作業。
前日の作業の手順によっては、沼井掘りが朝浜の仕事になる。
ろ過がすんだ砂を掘りだして沼井の肩に積み、次の浜持で取り換えられる。
朝浜が終わると、帰宅して東食。

塩田の小溝に海水を入れるのは重要で責任のある仕事とされている。
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜くいて濃い海水を入れる。
この仕事は上浜子が受け持っていた。

広い塩田に万牙を引く。
昼になる。
昼食、昼寝をする。




午後2時、浜持である。
寄せ子が寄板をもって真っ先に塩田におりる。乾いた砂で足の裏が痛い。
寄板を腹に当て手で押して力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
息も絶え絶え。
次に入れ鍬がつづく。寄せ子が寄せた砂を沼井の中へ放りこむ。
最も体力のいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。
そのあとに振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんに撒く。
技術と力が物をいうむつかしい作業で素人にはできない。
続いて沼井踏が沼井に入れられた新しい砂を沼井鍬で踏みならす。
灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入り鍬は降り鍬に追われる。
汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。





次の仕事にかかる。
寄子は大きな勺を持って沼井壷から藻垂れを沼井に汲み上げる。
これもきつい仕事だ。
数多い沼井壷を次々に汲み上げる。
浜子は大きな浜桶(たご)を担いで中溝の海水を一ぱい入れると大変重いがこの仕事を繰り返して作業が終わると
灼熱の太陽が鉢山の端に沈む。
なお、それぞれに整理作業が続く。


寄子が家に帰れば子守、風呂焚き、家事の手伝いが待っていた。
農繁期には月明かりで田畑の耕作や収穫作業を働いた。

浜持のできない悪日和には、のんびりできる。

「明日は雨じゃ」「夕立がくるぞ」となるとさあ大変。
「おえ持ち」といって、三日交替の塩田二日分を一日分としたり、「皆持ち」という塩田全面積を一度に作業することもあった。

・・

流下式枝条架が採用され労力を省いた。
やがてイオン交換膜の製塩法になり、昭和34年に長い歴史の幕を閉じた。

寄島塩業は寄島漁業と二大基幹産業として貢献した。
第二次世界大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機には貴重な資源となり、増産がはかられた。
いま、歴史の中で立派な役目を果たして消えていった。

・・・

 

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浜子① ~寄島塩田&野崎浜二十三番地~

2023年10月03日 | 失われた仕事

(JR松永駅前 2012.1.7)

 

管理人は農家に生まれ、「百姓にはなるな」(仕事はしんどく、収入は少ない)と言われて育った。
隣の家は漁業だったが、これもしんどそうな仕事だった。

当時瀬戸内海地方は塩田が盛んだったが、この仕事も重労働。
日本経済を牽引していた繊維産業には「女工哀史」、黒いダイヤの炭鉱は命がけの重労働。

学校に行くには踏切を渡らねばならなかったが、機関車にスコップで石炭をくべる乗務員からは汗が飛び散っていた。あの仕事もきつい。

結局、思うに、高度経済成長以前の日本は、どの仕事も
毎日10数時間働いても、一日三回麦飯を腹に通すのが精いっぱいだった。




(青佐山お台場から寄島塩田跡地を見る。面影はまったく残っていない。浅口市寄島町2020.4.4)




・・・
「鴨方藩」 藤尾隆志 現代書館 2021年発行

塩田
天保年間(1830~1844)に寄島塩田が開発された。
明治初年には全長二キロに及ぶ塩田が形成された。
寄島には鴨方藩の「御用場」が設置され、
生産された塩の管理が行われていた。

・・・



「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行


塩田に働いた人々


海水を桶で汲み上げ、粘土を敷き固めた上に砂を播いた塩田に海水を撒き、砂についた海水が日光と風によって塩分が濃くなってから砂を集め、
ろ過して釜に入れ煮詰める製塩法であった。

入浜式塩田が造成されたのは天明3年(1783)に青佐沖の古新田が最初であった。
この時初めて近代的合理的な入浜式製塩が始まった。

海岸の堤防に樋門を設けて海水を塩田に入れ、塩田作業により濃い鹹水(かんすい)を採って釜で煮詰める効率的な方法である。
明治元年までに約26ヘクタールが造成され内海屈指の生産高を誇る寄島塩田ができたのである。

塩田で働いた人たちの労働は厳しかった。
天候が相手で、やけつく夏も、凍りつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回の飯を食べるきつい仕事であった。

塩田は1町5反、2町を短冊型に区画し、これを1塩戸とし経営された。
塩戸毎に
棟梁(2交代で塩を焚く、夜勤を夜釜という)
上浜子(ばんこ)浜子の頭
浜子 1戸5~6人。作業の中枢となって晴雨にかかわらず出勤する。
きっぷ 女や子供・老人で寄せ子といって浜持ち作業の日だけ出勤する。
計約10人くらい。

浜子の月給が5円70銭できびしい過酷な労働であったが、報酬としては恵まれていたという。
味噌・醤油まで給付された。

・・・・

 

 

「新修倉敷市史第八巻」  倉敷市  1996年発行

 

 

元野崎浜二十三番地。
JR児島駅の辺りは、かつてこう呼ばれていた。
労働者たちは”浜子”と総称されていた。

師走の声を聞くようになると、その年の収支も明確になり、浜の評価も決まってくる。
浜子にとっては来年の契約・給金額等が気にかかる落ちつかない時期である。
それぞれの浜には大工(または棟梁)と呼ばれる責任者がいた。
大工は作業の責任者であり、浜子の雇用について決定権を握っていた。
この時期、優秀な浜子の「引き抜き」は相当激しかったようである。
技能に秀でた浜子を集めることは親方である大工の評価にもかかわる。
また浜子の側は少しでもよい条件の浜と契約することが実生活につながるので、
お互い必死であったという。
好条件を求めて十州の各塩田を渡り歩く者もいたという。
年末に翌年の給金額が定められ、何割かを前金として受け取っていた。
さらに浜子一人一日当たり米九合と味噌・醤油が支給された。
一浜に平均七名の浜子が就業していた。
彼らは原則として各浜に付設された浜子小屋に居住していた。
浜子は他所からの出稼ぎが多かったが、
中でも瀬戸田・越智大島等の芸予諸島の出身者が大半を占めていた。
中には夏だけ浜子を努め、冬場になると杜氏として酒造業に携わる者もいた。

塩田の一日
正月が過ぎると、塩田作業が始まる。
この時期は道具の修理、塩田地場の整備が主な仕事であった。
「床入」
年に一回床入と称する浜鋤きを行った。
カチカチになった塩田を牛三~五頭を使用して鋤き起こすもので、
地盤を軟らかくし水分蒸発を促すため定期的に行っていた。

最盛期
塩分濃度の高い灌水が採収される七~九月であったが、
三~十一月にかけて通常の作業が行われた。
採鹹(さいかん)
濃縮した鹹水を採収する。
採鹹作業を取り仕切る浜子を上浜子(じょうはまこ)と呼び、大工に次ぐ立場にあった。

煎熬(せんごう)
釜の中で鹹水を煮詰めて結晶塩をつくる。
大工と夜釜焚きが二交代で担当した。
塩の生産量、品質、燃料費の節約が大工の裁量の要素であった。

・・・

 

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炭鉱夫

2023年10月03日 | 失われた仕事

戦前・戦後の日本経済を担っていた炭坑会社は、
昭和35年政府の貿易自由化方針により、
安価な石油や、安くて良質な海外炭に押され
昭和30年代後半から昭和40年代全般に次々と閉山していった。

 

・・・

「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行

「黒ダイヤ」の悲劇


炭坑のガス爆発や落盤事故が続いた。
体育館には煤けた炭坑マンの遺体が累々と並べられた。
56年の北炭や59年の三井三池探鉱の事故では何百人もの命が失われた。
閉山が相次いた。
平成2年夕張炭鉱の閉山で、日本の炭鉱はすべて終わった。

 

(福岡県田川市 2017.2.14)

 

 

(福岡県田川市 2017.2.14)

 

 

(文部省推薦映画「にあんちゃん」、城見小学校の講堂で生徒全員が見た)

 

・・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

 

炭鉱夫

石炭の採掘が本格化したのは明治時代になってからである。
政府の官営事業となってからは監獄の囚人に採掘を行なわせた。
後に払い下げ後は、一般の人から炭鉱夫を雇うようになった。

労働条件は厳しく、
褌一枚で地下を掘り続けなければならず、
女性も半裸で働いていた。
戦時中は中国などから炭鉱夫が徴用されたこともあった。

炭鉱夫は「斜坑人車」というリフトに乗って地下300mほどの採掘現場(切羽)に向かう。
仕事は主に「掘進」と「採炭」に分けられ、
新人は、真っ暗な地下壕で恐怖に縮みあがることもあった。
ヘルメットに付けたキャップランプが頼りである。

「掘進」は採掘現場までの坑道を掘る仕事で、
「先山」と呼ばれる熟練工が、
「後山」という経験の浅い人を三人から五人使って、仕事を進める。
火薬で岩を崩し、崩れた岩を先山が運びやすいように小さく砕く。
後山がこれらをトロッコで運ぶ。
岩を運ぶと、天井が崩れ落ちないように板や木で枠組みをする。

「採炭」は、トロッコを坑道の出口まで運んだ。
このようにして一日に三メートルを掘り進めていた。
「採炭」の仕事は、炭鉱夫にとっては花形で、給料もよかった。

彼らの仕事は一日三交代の一週間交代で繰り返された。
現場は地下深いため通風も悪く、暑くなった。
炭鉱で働くことは危険な仕事であったが、
それだけに彼らは同胞意識も強く、炭住に住み、家族同士の付き合いも密だった。

・・

炭鉱夫の哀話

炭坑労働は過酷で、たびたび炭塵爆発などが起こっている。
三井三池炭鉱は、昭和初期まで囚人労働が主で、女性の鉱夫、朝鮮人労働者もいた。
とくに与論島から来た人たちは厳しい労働条件で差別されていた。
日本の炭鉱には、近代化の負の歴史が多く隠されている。

 

・・・
昭和50年当時、上司は福岡県田川市出身の方だったが、
「政府が再就職の斡旋をし、
石炭産業から石油関連会社に(職も土地も)移動した人が多い」
という話をしていた。
・・・

福島県郡山市のトンネル工事現場での安全講習会でのこと、
「地下何百mの炭鉱で穴を掘っていた」という作業員がいた。
その人は、強い口調で自負心から、さまざまな提言があった。
かつて日本の基幹産業の一端を支えていたというプライドを感じた。

・・・

 

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写真集「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」が発売された  2023.10.1

2023年10月01日 | 令和元年~

「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」が発行された。

 

 

・・・

 

ページを開くと、いろんな笠岡の写真が満載。

 

白石島。

 

カブト東町のアッケシソウ。

 

御嶽山の幻虹台。

 

笠岡商業高校出身の千鳥のダイゴとノブ。

 

 

笠岡市指定無形文化財。

ユネスコ選定の「白石踊り」。

 

岡山県指定、「大島の傘踊り」。

 

 

「真鍋島の走り御輿」

 

「北木島の流し雛」

 

(上記は本の一部)

 

・・・

何回見ても見飽きない、
笠岡の魅力満載の本であることは間違いなし。

定価2.000円で発売された。

 

・・・

書籍名・去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡
発行日・令和5年10月1日
編集者・笠岡路上観察研究会
印刷所・中野コロタイプ

・・・

 

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