しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「街道をゆく」占守島

2022年06月14日 | 占守島の戦い

元帝国陸軍戦車兵の
作家司馬遼太郎氏が、秋田空港から象潟へ向かって乗ったタクシーの運転手さんは、
元・占守島の兵士だった。

 


「街道をゆく29」 司馬遼太郎 朝日新聞社 昭和62年発行

 


秋田県散歩・占守島(しゅむすとう)

空港で乗った個人タクシーの矢倉氏は、温厚で、えもいえぬ含羞がある。
大正10年うまれで、私より二年先輩である。
この年代はよく死んだ。
「よく生き残りましたね」
「はい」
おだやかな表情である。

「敗戦までおられたのは、どこですか」
「占守島でございました」
その島名をきいて、鼻の奥に硝煙がにおいたつ思いがした。
「大へんなところにおられましたね」
「はい」
占守島というのは、日本領だった。
戦前は千島国占守郡とよばれていた島である。

 

このひらたい島は、カムチャッカ半島からかぞえると、千島列島第一島である。
第二島が幌筵島である。
「かれらは幌筵島へ行ったよ」
というふうな会話を、私は昭和二十年初頭、ずいぶん耳にした。
幌筵島にまで戦車聯隊がおかれるときいて、ふしぎな思いがした。
すでに戦争は日本軍の衰耗期にあり、守勢に立っている。
米軍が北方から飛び石づたいに北海道へやってくるという公算も少なくなかった。
この仮定のもとに、占守島・幌筵島に兵力が置かれたのである。

米軍が上陸したときにできるだけ出血を強要しようというもので、
このため水際における火力配置が重視された。
砲兵は岩壁をくりぬいて砲を入れ、上陸点と思われる浜の両側から側射できるようにした。
米軍機による両島への爆撃は、昭和20年に入ってからほとんど毎日のようだったという。

 

「池田末男さんという大佐をご存じでしたか」
「いえ、私どもは高射砲でしたから。
しかし、関東軍から元気のいい戦車隊がきたというので、評判でした」
8月15日、日本は降伏した。
同17日、占守島の各部隊は兵器の処分にとりかかった。
兵器のひきわたし相手は当然米軍だと思っていた。

18日になって異変がおこった。
午前1時半すぎ、
砲声がとどろいた。
戦車聯隊の本部付の情報担当をしていた木下弥一郎は、私の同期生だった。
かれらは幕舎で、この砲声をきくと、すぐとなりの幕舎に寝ていた池田末男大佐を起こした。

池田大佐は電話で幌筵島の師団長をよびだし、決心を問いただした。
木下は電話のすぐそばにいたが、池田大佐はじつに意気軒昂としていたという。
ともかくも、国家としてポツダム宣言を受諾しているのである。
師団からすぐさま東京の大本営に、上申の電報を打った。
大本営からマッカーサー司令部あてに打電し、
ソ連に対して停戦するよう指導ありたし、と要請した。
マッカーサー司令部ではそのように連絡したはずだったが、ソ連は応じなかったらしい。
このために、無用の戦いが始まった。

ソ連は艦船をともない、射撃を加えつつ、島の北端の竹田浜に上陸してきたのである。
池田大佐は午後2時40分ごろ各中隊に非常呼集をかけた。
島の北端では日本側の歩兵や砲兵がすでに戦闘中だった。
戦場付近に到着したのは午前4時ごろで、すぐさま攻撃を開始した。
この間木下弥一郎は軽戦車に乗って、連隊長戦車のあとに従っていたが、
連隊長戦車が砲弾をうけてぐっと盛りあがり、やがて炎上するのを目の前で見た。
8月21日、
双方の軍使によって停戦がきめられるまで、ソ連軍は苦戦しつづけた。
ソ連政府機関紙『イズベスチャ』は
「8月19日はソ連人民の悲しみの日である」と書いているという。

 

私の友人は、すくなくとも四人戦車の中で死んだ。
ソ連軍は、一ヶ月後、戦場掃除をゆるした。
将校ばかり十五人がそのことに従事し、木下弥一郎もそのなかにいた。
かれは遺骨入れの袋を作っておいた。
羽二重製の五センチ角の袋である。
遺体からハサミで親指二節を切りおとし、それを丁寧に焼いて、灰にした。
遺骨袋は九十六個だった。
それを一つの箱におさめた。
その後、シベリアに拘留中もその遺骨箱を持ちあるいた。
この箱をソ連軍の目からかくすための苦心を書くだけで一冊の本ができるほどだった。

 

 

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