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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日本全土、B29の空襲 新聞の報道 「年表 太平洋戦争全史」

2018年02月20日 | 昭和20年(終戦まで)
戦後の戦争責任者は東京裁判で裁かれたり、公職追放等で処分されたが
「神社」と「マスコミ」は免れた。
新聞は最大の戦犯者のように見える。


下記の本から転記する。
「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会


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既に12回も来襲 燃やせ無限の敵愾心 日本民族の抹殺が目標
B29暴虐の大都市無差別爆撃


日本完全抹殺を呼号する敵米がわが本土に対する本格的爆撃を企図してマリアナ基地の強化に狂奔する。
指揮官もまた対独爆撃に”鬼畜”の名をほしいままにした代将ルメーを配し、いよいよその非望を露骨化するに至った。
その毒牙は昨月10日未明の帝都大空襲によって露呈された。
夜間の無差別爆撃といふあくなき暴虐ぶりを示した。

ここに敵の鬼畜にも優る暴虐性をまざまざとみせつけられたばかりでなく、市街地の住宅地域を目標にして家屋の焼棄および非戦闘員の殺傷を図り、さらに時限爆弾を投下して殺傷力の増大を狙うなど如何に敵が短期決戦を焦るのあまり選んだ手段とはいえ、その目的がわが民族の戦意喪失を狙ったものとしても、その心底は日本抹殺・日本民族抹殺にあることを銘記すべきで、天人ともに赦さざるこの暴虐に対してわれらは断乎、新たなそして無限の敵愾心と復讐心とに奮ひたたざるを得ない。

敵は今後ともさらにわが本土に、わが民族の上にその鬼畜の魔手をひろげるのは必至で、前線の戦況が不利になるほどに暴虐の限りをつくすのである。
たとえこの敵の犠牲にとなって家を焼かれ肉親を失ってもどんなことがあっても戦はなければならない、負ければ殺されるのだ。
日本民族は滅亡してしまうのである。
心底から発する憤怒を飛行機生産に、食糧増産にこめて敵を叩きのめさなければならない。

読売新聞・昭和20年4月25日


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仁科芳雄博士の手紙

2018年02月20日 | 昭和20年(終戦まで)

広島の新型爆弾を、大本営は”原爆”と分かっていたようだが確認の意味を含めて、
開発者である仁科博士を現地に派遣した。


博士の故郷・里庄町では、「原爆」であると認定し、それにより戦争終結に至った大恩人であると紹介している。それには・・違和感がありすぎる。


下記の本から転記する。
「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会


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仁科芳雄博士の研究員玉木氏への手紙(20・8・7)

玉木君

トルーマン声明は今度の原子爆弾が「火薬2万トン」の威力があると述べている。
これは君の報告の数字とよく合致している。

トルーマン声明が事実とすれば我々「ニ」号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思う。
広島へ明日着いてみれば真偽一目瞭然であろう。そして参謀本部へ到着した今迄の報告はトルーマン声明を裏書きする様である。
米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を得たのである。
これは結局に於いて米英の研究者が理研49号館の研究者の人格を凌駕しているといふことに尽きる。

広島の8割が只の一弾でやられ死傷者11万人を出したといふことだ。その真偽は広島へ行けばわかる。

昭和20年8月7日夜 仁科芳雄


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忠魂碑 「真備町史」

2018年02月20日 | 暮らし

「真備町史」より転記

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真備町内の忠魂碑

旧村内に一つずつあり、明治以来の戦没者を顕彰慰霊する碑である。
真備町内の旧村7ヶ所の碑を簡単に説明しておく。

碑文は全部忠魂碑と大きな字で書いてあり、その側に多くは筆者の肩書氏名を書いてある。
筆者は県下各地のものがほとんど陸軍大将か元帥のもので、中には岡山師団長とかその他のものもある。


櫛田
昭和3年、櫛田小学校校庭に建立。
終戦により撤去、昭和25年吉備真備公憤の西側に再建。昭和39年忠霊芳名碑を建立。

川辺
昭和4年、神社境内に在郷軍人会により建立。
27年戦没者芳名碑を建立。文字は陸軍大将一戸兵衛。


大正15年、神社参道に建立。
昭和37年戦没者芳名碑を建立。

岡田
大正4年、岡田小学校校庭に建立。
終戦後一時埋没されていたが間もなく再建。
昭和35年遺族会により芳明碑を建立。

二万
大正4年、神社境内に在郷軍人会により建立。
昭和34年戦没者芳名碑を建立。

呉妹
寺院境内の奥まったところにある。
大正15年小学校校庭に建立した。
戦後撤去、昭和25年お寺に再建。昭和35年忠霊芳名碑を建立。

穂井田
大正4年、穂井田小学校校庭に建て。昭和24年真言宗寺院に移し、碑は真備町が管理している。


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在郷軍人会  「真備町史」

2018年02月20日 | 暮らし
「真備町史」より転記

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現に軍務に服役していないで郷里にいて兵籍ににある人を以って組織するもの。

この中に一度入営して訓練を経たものと一度も入営して教育を受けてないものと両方を含むものである。
明治43年に設立、「帝国在郷軍人会、○○分会」と称する。

点呼
在郷軍人会には時々「点呼」という行事があった。
軍から派遣された将校や下士官が、2~3ヶ村ぐらいの在郷軍人を一定の所に集め、一日間、査閲、氏名点呼、臨時訓練などをした。
大正時代は、殆どの人たちが着物を着て訓練にのぞみ、腰に「奉公袋」というものをぶら下げ、この中に頭髪など遺品の材料を入れたりしていた。
「廻れ右」の訓練から始まった。

太平洋戦争の頃は、
青年学校備え付けの銃を持って訓練したりしした。
また在郷軍人は忠魂碑を建てたり、慰霊祭をしたり社会活動もした。

昭和20年敗戦により解散。


戦後ある在郷軍人分会長の感想
「戦時中あれだけ君国のため、戦争に勝つため、上司の命令通り、費用弁償一銭ももらわず、翼賛壮年団長も兼ねて、月に20日くらい家事を忘れて服務したのに、戦後すぐ公職追放、四年間は罪人として扱われ、これが御奉公を尽くした報酬とは余りにも残酷でした。」



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青年団  「真備町史」

2018年02月20日 | 暮らし

「真備町史」より転記する

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青年団

(明治)
当町青年団は明治38年、時あたかも日露戦争の勝どきの声のうちに誕生した。
大正10年頃までこの地方は一般的に着物を着て運動会にも参加した。
青年と称する者の中には既に軍隊教育をすませて退官したものもいた。
その頃は数え年35歳までとしていた。

日露戦争以後、文部・内務の両省の育成指導のもと全国各地に青年団を結成、当町もその時である。
結成のうしろには常に陸軍省が控えて居り、徴兵策の一環とした。
当時の団長は小学校長。指導者は教員や吏員。

(大正)
大正の初め頃より女子も青年団を組織した。
次第に国家主義となり、大正15年には青年訓練所が設置せられ学校と直結することになり、しかも軍事訓練を主とするに至った。
当時軍縮による師団廃止による将校の余ったのを諸学校に配属将校として配置し、軍事訓練を中心とするに至った。

(昭和戦中)
更に昭和10年には「青年学校」とし男女とも小学校高等科を卒業したら義務的に就学させられた。ここにおいて青年団の自主性が薄らいだ。
太平洋戦争中は軍隊基礎教育として訓練と軍需工場への徴用の強制策で意義を失う。

(昭和戦後)
昭和28年に文部省は「青年学級振興法」を制定した。
昭和30年頃を頂点として数年後各地に青年学校の夜学的なものを各小学校に開設したが、戦後の所得倍増、工業化により農村は過疎となり、青年団活動は次第にふるわず現在に至っている。



以上は主に男子青年団であるが、女子青年団も結成せられたが、夜間の会合や他町村への出張研修は父母の賛成を得られず難点をもっていた。

そもそも青年教育とは小学校卒業のみのものをいい、青年とは中等教育卒を含み、学歴差が問題の一つとなる。

しかも青年訓練所は学校系統図にないものが、青年学校という学校教育法によるものへ戦時色のための移行であった。


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占守島 「黒崎の郷土史」

2018年02月19日 | 占守島の戦い
「黒崎の郷土史」平成19年発行より転記

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Kさんの太平洋戦争(シベリア抑留記抄)

昭和19年
4月15日 充員召集令状(赤紙)来る。
4月25日 独立白砲第18大隊第1中隊に入隊。
6月7日夜 隠密裏に小樽港を出航
6月16日 第1中隊は温称古丹島、第2中隊本部は占守島。

昭和20年
7月30日 内地より最後の郵便物来る。
8月4日 郵便戦にて出航、翌日占守島長崎海岸に上陸。
8月13日 後続の船団、米艦隊の攻撃でことごとく海没と知る。
8月15日 この日、天皇の重大放送有と聞くも、僻地の陣営では、その放送を聞くすべなし。全国民一大奮起の促すお言葉であろうと思っていた。
8月16日 15日の放送は終戦、といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日 朝、小隊長より終戦詔勅(しょうちょく)の確報を聞く。

8月18日未明 ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。
我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ、我が方、敵を水際まで押すも大本営よりは抵抗ならずの命令。
膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三に渡り軍使を出し交渉に入れども事態は妥結せず。
見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日 我々23名は孤立。食料無く、食料受領に中隊本部の所在も不明なまま出発する。 途中敵弾の雨あられ、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命じられ帰隊する。敵弾の飛来はようやく治まる。
8月22日 現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日 漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍集結、武装解除される。

9月5日 ソ連の指揮下に入り作業に従事す。
10月10日 海軍基地の片岡湾に終結、ソビエト船に乗って占守島を出航。
10月18日 朝、ソビエト領カリマ州マガダン港へ投錨。
10月20日 マガダンより80キロ奥地フタロヒに着く、約4.000名。
10月22日 森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、衣服はボロボロに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさに凍傷にかかる。栄養失調、体力は日々衰える。

・・・・・・・途中略・・・・・

(昭和24年)
10月11日 東舞鶴より、夕方京都駅に着く。岡山より妻・叔父来て下さる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘や親類の方々来て下さる。
11時ごろ。金光駅に着く。黒崎村よりもの人たちが大勢迎えに来て下さり、郷関を出でて5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。


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風船爆弾攻撃   「年表太平洋戦争全史」

2018年02月19日 | 昭和16年~19年
下記の本から転記する。

「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

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風船爆弾攻撃(19・11・1)

気球連隊は11月1日「ふ」号攻撃を始めた。
この攻撃はいわゆる「風まかせ」で、その成果を確認する手段がない。
昭和20年3月まで続く。



注・「ふ」号作戦については米西部防衛司令部参謀長の報告がある。
以下その要点を抜粋引用しておく。

内輪に見積もっても900~1.000個が米大陸に到達した。
落下した区域はアラスカからメキシコに至る広範囲で、太平洋北西地帯からカナダにかけて200個近くが発見され、その外75の風船の破片が陸上や海中から拾われた。
少なくとも100個の風船が上空で爆発したのを見た人々がいる。

世界で初めて飛び道具が人間に導かれないで海を渡ったのである。
大損害をもたらす可能性もあったが、冬の雪で山火事は少なかった。

また細菌を運んで来るのではあるまいかと心配し、米政府が動かした細菌学者は4.000名に及び、要所要所に防毒マスクや薬が準備される騒ぎであった。
米国は秘密にし、国民に警告を与えることもできなかった。
新聞ラジオも検閲によって報道しなかったからである。


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ガ島は蛾島 「年表太平洋戦争全史」

2018年02月19日 | 昭和16年~19年
下記の本から転記する。

「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

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ガ島は蛾島(17・11月)

あの頃の話をすると、「では蛇やトカゲを食べた組ですね」と質問される。
蛇もうまく、トカゲもうまさはあるけれど、蛇は早いし、トカゲもするすると走ってゆく。
杖をついて歩く兵隊にはたやすくつかまるご馳走ではない。
我々の口にはちょっと入らぬものと諦めていた。

水草、島苺、ぜんまい、蟹。塩の代わりに海水。
腹のたしになれば何でもよい。

死んでゆく人間の脆さは、枯れ木の折れるよりはかない。
「俺は駄目だ」そう言った人間は例外なく死んだ。
弱音を吐いた者はおしまいだった。

吉田嘉七「ガダルカナル戦記」










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日中戦争と郷土部隊⑥銃後の組織化 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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赤柴部隊の独流鎮の戦いの報道が、県民に伝えられている最中の、8月24日だけの記事のなかにも、凝縮して現れている。


まず、県知事以下県会議員が先頭になって「国威宣揚」「皇軍武運長久」の祈願を行う。吉備津神社。
総社町 帝国在郷軍人会吉備郡連合分会主催、郡下各町村分会長会を開催。


在郷軍人会を中心に市町村や警察が乗り出して、各地域に銃後後援会=軍人後援会あるいは国防婦人会が組織されていく。

倉敷市大高学区内 郷軍、消防、生徒、市議、町総代、国防その他の婦人団体、産組、宗教団体各総代50余名集合して軍務公用者並びに遺族家族の救護に関する協議会を開催。
金光町 金光町軍人後援会創立総会が町小学校講堂で開催。各代表120名。
刑部町 国防婦人会結成式結成式。会員450名出席。終わって武運長久祈願祭を村社で執行した


こうして、銃後における戦争熱が高まる中、次々と歓呼の声に送られて出征した兵士たちも、その多くが、やがて「白木の箱」で故郷に帰ってくる。
先の諸団体は、その戦死者を村を挙げて英雄として祀り、戦争熱をさらに増幅し扇動していったのである。


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日中戦争と郷土部隊⑤戦争報道 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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赤柴部隊の天津から徐州を経て武漢への、果てしない行軍は、そのまま、戦争目的もあいまいなまま、ズルズルベッタリに、戦争に深くのめり込んでいく日本の姿そのものであった。

合同新聞は「仰げ護国の人柱 碧血に輝く郷土将兵の偉勲」「あゝ○○大尉 我が赤柴部隊に鳴る勇猛果敢」と大きく報道した。
岡山市の留守宅を訪れると、夫人は流石に武人の妻らしく、
「かねて覚悟をしてゐました。お国のために立派に働いたのですから思ひ残すことはありますまい、私としても武人の妻としていま更何事も申すことはありません」
と、少しも取り乱すこともなく言葉少なに語ったという。

この後も一貫するワン・パターンの記事が載せられ、銃後の国民はそうした建前に押し流されていくことになる。
こうした記事が、次々と新たにセンセーショナルな形容詞を冠せられて、紙面を埋めつくしていくのである。
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