しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

漢口攻略戦その二 光州の攻撃

2018年02月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の所属する部隊の記録を転記する。
煙弾とはどうゆう類のものだったのだろう?

「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年9月)
固始の堅塁は第8旅団が攻撃しこれを占領する。

固始を出発した第33旅団は、9月15日毛利部隊栗栖大隊が先頭となって第一中隊が尖兵となって前進する。
戦闘が開始されると行軍に疲れた兵士も緊張して落伍者は一人もいない。
七里崗が光州の前衛陣地である。ここではじめて煙弾を使用した。
しかし敵も防毒マスクを用意しており、煙弾の効果は薄い。

当時ノモンハンでソ連軍と激闘し第23師団はほとんど全滅、北支の重砲はこの方面に集中移動していたので砲兵がこの爆弾を使用した事も状勢やむを得なかった事かと想像される。

第一中隊は味方砲兵の突撃支援射撃に夢中で踊り込み敵の散兵壕を占領し、光州を眼下に見下ろす位置に立つ。
光州城へは後2粁。

次は第四中隊が進み、軽戦車が先頭に立ち9月17日午後クリークを境にして光州大城壁とにらみ合った。
夕刻栗栖大隊長は薄暮攻撃を命じ、第四中隊が城門に突進し、敵は逃げこれを占領した。

第二大隊は光山を占領する。
光州守備は第33旅団があたり、第8旅団が羅山に向かって進撃し9月21日これを占領する。

信陽を守備していたのは中央軍直結の師団、四川軍の師団が必死の防衛線を張っていた。
羅山に迫ったわが軍に対し、敵は信陽→羅山に向かって援軍を送り逆襲に転じて来た。
「岡田支隊(第8旅団)危うし」の報に毛利部隊も9月28日光州を出発して30日羅山に着く。
羅山に着いた毛利部隊は、第63連隊とともに大別山系に入り、信陽の南方に出て敵の退路遮断に挺進する。
当時羅山の第8旅団は26日から約3.000人の敵に包囲されたが、敵の機先を制して猛烈果敢な火蓋を切った。
このため敵の企画は画餅に帰し、算を乱して敗走し始めた。




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漢口攻略戦その一 光州への行軍

2018年02月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の所属する部隊の記録を転記する。
「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年)
8月17日~20日帰徳を出発して徐州を経て8月19日~22日蛙埠に列車輸送で着く。

8月21日~22日蛙埠を出発して徒歩行軍で陳橋・武店・永康鎮・朱家昭・東郭家戸・商家集・路々集・四十頭と露営を重ねて8月27日~30日慮州に入る。

この頃第10師団は第3師団と共に、六安・固始・光州の線を進む。
第10師団でも歩兵8旅団が先頭になって進んだが、8月末の炎天下であり、日射病にかかる者多く、かつコレラ患者が発生して倒れるものも多く、行軍の労苦をしみじみと味わう。
兵隊は唯だ黙々と歩み続けるのであるから、その労苦は倍加し、敵兵の出現を願う気持ちになる。ひと休み出来るからである。
コメント (4)
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