しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

”藤田の売逃げ”

2018年02月25日 | 昭和21年~25年
藤田財閥の児島湾干拓地は、戦後の農地改革でどのように解放されたのだろうか?

「流れる おかやま百年」山陽新聞社 昭和42年発刊より転記

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(終戦直後)
その頃、全国的な大地主は本間元也(山形)市島徳厚(新潟)と並んで、藤田農場が超大物で、
県下では大原農場、服部合資のど大どころが控えていた。

なかでも明治、大正、昭和にかけて”小作争議”の焦点だった藤田農場の開放は、政府でも関心事だったが、21年5月あっけなく幕となった。
この解放には”藤田の売り逃げ”という悪口もたたかれた。

敗戦直前には、人出不足から藤田農場の経営は四苦八苦。そのうえ、日銀からの負債四千万円も頭痛のタネ。
20年11月、会社側と大阪警備府の間で復員軍人の受け入れ契約を結んだのを皮切りに「四千万円で藤田村に、農場のいっさいの権利義務を売却する」話が出た。
多くの地主が手痛い打撃を受けたときだけに”藤田の売り逃げ”論が出た。

農地改革で自作農化した旧小作人のなかには、敗戦後のヤミ米でしこたまかせぎ、最近の土地ブームに乗って旧地主の反感を買うケースも多い。


コメント
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