しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

蒋介石の抗日戦勝利演説

2018年02月20日 | 昭和20年(戦後)

終戦後、中国からの復員が平和裏に行われたのは、蒋介石や中国の人のおかげが大きい。戦後の日本人には中国に対し、感謝の気持ちが少ないように思う。

下記の本から転記する。
「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

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蒋介石の抗日戦勝利演説(20・8・14)


わが中国が暗黒と絶望の時期を8年にわたって奮闘してきたその信念は、今日ついに実現を見るにいたった。
わが全国同胞が抗戦以来8年間に受けた苦痛と犠牲は一年ごとに増加したが、抗戦必勝の信念もまた一日ごとに強まった。
同胞たちは無限の圧迫と侮辱の暗黒を受けたが、今日完全に開放された。

わが中国の同胞は「旧悪を思わず」及び「人のために善をなす」ことがわが民族伝統のもっとも高貴な徳性であることを知らねばならない。

われわれは一貫して、正義にそむいて戦いを始めた日本の軍閥と敵とし、日本の人民を敵としない声明してきた。
いまや敵軍はわれわれの同胞によって打倒された。
われわれはきびしく彼らに責任をもたせ、あらゆる降伏条件を忠実に実行させなければならないが、決して報復を企図してはならない。
ことに敵国の無辜の人民に侮辱を加えてはならない。
もしも暴行をもって敵の従来の暴行に答え、侮辱をもって彼らの従来の誤った優越感に答えるならば、恨みに報いるに恨みをもってすることになり、永久に終止することはなく、われわれ仁義の軍の目的ではない。

戦争が確実に停止した以後の平和は、巨大な困難をともなう仕事のあることを明示するであろう、われわれは戦時同様の苦痛をもって、また戦時よりもさらに巨大な力量をもって、改造し、建設せねばならない。

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戦後自決した方々

2018年02月20日 | 昭和20年(戦後)
陸軍大臣阿南大将は、
神州不滅を確信しつつ「一死以て大罪を謝し奉る」
と、終戦の前夜自刃した。

これは誰に対して”謝し”なのか不明で、もう一言あった方がわかりやすい。
死んでいった兵に対してか?銃後の国民にか?軍の暴走を納める意味か?
戦争に勝てなかった責任か?天皇に対するおわびか?

「陸軍省発表。
阿南大臣は輔弼の責めを十分に果たし得ざりしを閣下に御詫び申しぐる・・・」
となれば、天皇に死んで詫びたことになる。
今の国民の目線からすれば、ちょっとさびしい。

しろみ村では元海軍将校が自宅で自刃した。
全国では568名いたそうだ。


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額田担編「世紀の自決-日本帝国の終焉に散った人びと」

昭和43年刊、巻頭に「留魂=終戦自決五百六十八柱の芳名」を付し、内外各地で自決した軍人・軍属144名の書簡・遺書等を載せる

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日本全土、B29の空襲 新聞の報道 「年表 太平洋戦争全史」

2018年02月20日 | 昭和20年(終戦まで)
戦後の戦争責任者は東京裁判で裁かれたり、公職追放等で処分されたが
「神社」と「マスコミ」は免れた。
新聞は最大の戦犯者のように見える。


下記の本から転記する。
「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会


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既に12回も来襲 燃やせ無限の敵愾心 日本民族の抹殺が目標
B29暴虐の大都市無差別爆撃


日本完全抹殺を呼号する敵米がわが本土に対する本格的爆撃を企図してマリアナ基地の強化に狂奔する。
指揮官もまた対独爆撃に”鬼畜”の名をほしいままにした代将ルメーを配し、いよいよその非望を露骨化するに至った。
その毒牙は昨月10日未明の帝都大空襲によって露呈された。
夜間の無差別爆撃といふあくなき暴虐ぶりを示した。

ここに敵の鬼畜にも優る暴虐性をまざまざとみせつけられたばかりでなく、市街地の住宅地域を目標にして家屋の焼棄および非戦闘員の殺傷を図り、さらに時限爆弾を投下して殺傷力の増大を狙うなど如何に敵が短期決戦を焦るのあまり選んだ手段とはいえ、その目的がわが民族の戦意喪失を狙ったものとしても、その心底は日本抹殺・日本民族抹殺にあることを銘記すべきで、天人ともに赦さざるこの暴虐に対してわれらは断乎、新たなそして無限の敵愾心と復讐心とに奮ひたたざるを得ない。

敵は今後ともさらにわが本土に、わが民族の上にその鬼畜の魔手をひろげるのは必至で、前線の戦況が不利になるほどに暴虐の限りをつくすのである。
たとえこの敵の犠牲にとなって家を焼かれ肉親を失ってもどんなことがあっても戦はなければならない、負ければ殺されるのだ。
日本民族は滅亡してしまうのである。
心底から発する憤怒を飛行機生産に、食糧増産にこめて敵を叩きのめさなければならない。

読売新聞・昭和20年4月25日


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仁科芳雄博士の手紙

2018年02月20日 | 昭和20年(終戦まで)

広島の新型爆弾を、大本営は”原爆”と分かっていたようだが確認の意味を含めて、
開発者である仁科博士を現地に派遣した。


博士の故郷・里庄町では、「原爆」であると認定し、それにより戦争終結に至った大恩人であると紹介している。それには・・違和感がありすぎる。


下記の本から転記する。
「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会


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仁科芳雄博士の研究員玉木氏への手紙(20・8・7)

玉木君

トルーマン声明は今度の原子爆弾が「火薬2万トン」の威力があると述べている。
これは君の報告の数字とよく合致している。

トルーマン声明が事実とすれば我々「ニ」号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思う。
広島へ明日着いてみれば真偽一目瞭然であろう。そして参謀本部へ到着した今迄の報告はトルーマン声明を裏書きする様である。
米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を得たのである。
これは結局に於いて米英の研究者が理研49号館の研究者の人格を凌駕しているといふことに尽きる。

広島の8割が只の一弾でやられ死傷者11万人を出したといふことだ。その真偽は広島へ行けばわかる。

昭和20年8月7日夜 仁科芳雄


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忠魂碑 「真備町史」

2018年02月20日 | 暮らし

「真備町史」より転記

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真備町内の忠魂碑

旧村内に一つずつあり、明治以来の戦没者を顕彰慰霊する碑である。
真備町内の旧村7ヶ所の碑を簡単に説明しておく。

碑文は全部忠魂碑と大きな字で書いてあり、その側に多くは筆者の肩書氏名を書いてある。
筆者は県下各地のものがほとんど陸軍大将か元帥のもので、中には岡山師団長とかその他のものもある。


櫛田
昭和3年、櫛田小学校校庭に建立。
終戦により撤去、昭和25年吉備真備公憤の西側に再建。昭和39年忠霊芳名碑を建立。

川辺
昭和4年、神社境内に在郷軍人会により建立。
27年戦没者芳名碑を建立。文字は陸軍大将一戸兵衛。


大正15年、神社参道に建立。
昭和37年戦没者芳名碑を建立。

岡田
大正4年、岡田小学校校庭に建立。
終戦後一時埋没されていたが間もなく再建。
昭和35年遺族会により芳明碑を建立。

二万
大正4年、神社境内に在郷軍人会により建立。
昭和34年戦没者芳名碑を建立。

呉妹
寺院境内の奥まったところにある。
大正15年小学校校庭に建立した。
戦後撤去、昭和25年お寺に再建。昭和35年忠霊芳名碑を建立。

穂井田
大正4年、穂井田小学校校庭に建て。昭和24年真言宗寺院に移し、碑は真備町が管理している。


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在郷軍人会  「真備町史」

2018年02月20日 | 暮らし
「真備町史」より転記

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現に軍務に服役していないで郷里にいて兵籍ににある人を以って組織するもの。

この中に一度入営して訓練を経たものと一度も入営して教育を受けてないものと両方を含むものである。
明治43年に設立、「帝国在郷軍人会、○○分会」と称する。

点呼
在郷軍人会には時々「点呼」という行事があった。
軍から派遣された将校や下士官が、2~3ヶ村ぐらいの在郷軍人を一定の所に集め、一日間、査閲、氏名点呼、臨時訓練などをした。
大正時代は、殆どの人たちが着物を着て訓練にのぞみ、腰に「奉公袋」というものをぶら下げ、この中に頭髪など遺品の材料を入れたりしていた。
「廻れ右」の訓練から始まった。

太平洋戦争の頃は、
青年学校備え付けの銃を持って訓練したりしした。
また在郷軍人は忠魂碑を建てたり、慰霊祭をしたり社会活動もした。

昭和20年敗戦により解散。


戦後ある在郷軍人分会長の感想
「戦時中あれだけ君国のため、戦争に勝つため、上司の命令通り、費用弁償一銭ももらわず、翼賛壮年団長も兼ねて、月に20日くらい家事を忘れて服務したのに、戦後すぐ公職追放、四年間は罪人として扱われ、これが御奉公を尽くした報酬とは余りにも残酷でした。」



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青年団  「真備町史」

2018年02月20日 | 暮らし

「真備町史」より転記する

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青年団

(明治)
当町青年団は明治38年、時あたかも日露戦争の勝どきの声のうちに誕生した。
大正10年頃までこの地方は一般的に着物を着て運動会にも参加した。
青年と称する者の中には既に軍隊教育をすませて退官したものもいた。
その頃は数え年35歳までとしていた。

日露戦争以後、文部・内務の両省の育成指導のもと全国各地に青年団を結成、当町もその時である。
結成のうしろには常に陸軍省が控えて居り、徴兵策の一環とした。
当時の団長は小学校長。指導者は教員や吏員。

(大正)
大正の初め頃より女子も青年団を組織した。
次第に国家主義となり、大正15年には青年訓練所が設置せられ学校と直結することになり、しかも軍事訓練を主とするに至った。
当時軍縮による師団廃止による将校の余ったのを諸学校に配属将校として配置し、軍事訓練を中心とするに至った。

(昭和戦中)
更に昭和10年には「青年学校」とし男女とも小学校高等科を卒業したら義務的に就学させられた。ここにおいて青年団の自主性が薄らいだ。
太平洋戦争中は軍隊基礎教育として訓練と軍需工場への徴用の強制策で意義を失う。

(昭和戦後)
昭和28年に文部省は「青年学級振興法」を制定した。
昭和30年頃を頂点として数年後各地に青年学校の夜学的なものを各小学校に開設したが、戦後の所得倍増、工業化により農村は過疎となり、青年団活動は次第にふるわず現在に至っている。



以上は主に男子青年団であるが、女子青年団も結成せられたが、夜間の会合や他町村への出張研修は父母の賛成を得られず難点をもっていた。

そもそも青年教育とは小学校卒業のみのものをいい、青年とは中等教育卒を含み、学歴差が問題の一つとなる。

しかも青年訓練所は学校系統図にないものが、青年学校という学校教育法によるものへ戦時色のための移行であった。


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