しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日本食物史②

2015年12月11日 | 暮らし
日本食物史・吉川弘文館より転記


15年戦争と食生活

食糧確保と食事の工夫
不足する食料を確保するには、自給自足、買出し、これまで食べなかったものの食用化の三つがある。
南瓜やさつま芋の栽培が奨励されると同時に、ドングリやイナゴの食用化がすすめられた。
代用食品採取のため「よい子のみんさんへ」というポスターには、
「とち、かし、ならクヌギは乾パンやあめやパンになります。うんと拾って沢山食べましょう。農林省」という文言がある。

副食は、平時は廃棄していた部分を食用化した。
蓮の葉、南瓜の茎や葉、大根の葉、人参の葉、フキの葉、カブの葉、里芋の茎、キャベツの芯、蓮根の皮、大和芋の皮、ほうれん草の根、みつ場の根、南瓜の種、甘藷のつる、しいの種子、桜の種子、桑の種子、魚の骨、茶がら、ぬか、ふすま、豆粕などである。
食べていなかったものの食用化の例としては、
各種の野草、いなご、はちのこ、さなぎ、かえる、へび、すずめ、どんぐり粉、柿の皮の粉などがあげられる。
それらの食品は地方では常食であったものが多い。

昭和33年、米軍向けだった西洋野菜のレタス、セロリ、カリフラワーなどが普及した。
同年フレンチドレッシングも発売された。サラダが食卓にのぼるようになった。

昭和38年、砂糖が輸入自由化。サッカリン、ズルチンから脱却できた。
コカコーラの輸入自由化は昭和36年である。




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日本食物史①

2015年12月11日 | 暮らし

図書館で借りた食物史が面白かったので一部転記する。



日本食物史・吉川弘文館より①

「食べる」行為は、動物的、醜い行為ととらえられ、羞恥心からも食べる行為を見せたくない、話題にしないという考えが生じる。
いっぽうで一定の階層、儀式などに共通した食事作法が生まれた。



脚気
明治12年、5.000人の4割が脚気にかかり、57人が死亡した。
海軍軍医はパン食と野菜を多くした、死者は7人に減った。(陸軍軍医・森林太郎は細菌説だった)

食生活の地域制
明治・大正・昭和の前期を通して、食生活がどのように変化したのか論じるのは困難である。
それは地域差が大きく、都市部と農村、山間部と海岸部、北部と南部、階層差により異なっていたためである。

すき焼き
昭和初期の東京の公務員家庭では「少しごちそう」として作る。
各地では言葉は普及していたが、鶏や兎や馬肉を使った「大ごちそう」で日常食とは言えなかった。(年に1~3回)

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