「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行
昭和恐慌化の鴨方
1930年3月から株式市場も一斉に下落をはじめ、物価の下落に連動した。
生糸55%、綿糸52%、米50%の下落を記録。
米と繭の日本農業を直撃することになった。
産業界は極度の不振に陥っており、首切り・合理化の嵐の中で失業者が急増した。
出稼ぎ者の帰村が始まり、農村は農産物の下落と帰村者の増加によって負債をかかえる農家が増加。
農村恐慌に突入することになった。
鴨方町および六條院村では、麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。
生糸の輸出減退は養蚕農家に甚大な影響を与えたが、
鴨方町では昭和期に入って急激な普及をみせていた矢先の不況到来であった。
養蚕農家数を見ると、
1912年(大正元) 7戸
1920年(大正 20戸
1926年 171戸
1930年 449戸
繭の価格は1929年上繭一貫 7.6円
1932年 2.80円。
次第に養蚕から手を引く農家が増え。1939年には105戸まで減少した。
農家副業としての麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方法は、
制帽工業と葉煙草に見い出そうとする農家が増えた。
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「笠岡市史第三巻」
昭和初期の小田郡の養蚕業の動向
城見村・昭和3年 69戸 871貫 5.522円
城見村・昭和5年 80戸 1.100貫 4.268円
城見村・昭和7年 74戸 661貫 1.784円
(管理人記・養蚕農家は大冝・用之江が多く、茂平は少ないと思える)
昭和恐慌は、特に生糸と繭の暴落に始まる農村恐慌となって現れた。
岡山県下でも上繭貫当たり平均価格が、昭和4年の7.46円から翌5年の3.70円と半値に下げている。
昭和5年、米価も全国的に急反落した。
「大学は出たけれど」と大学卒業生も仕事にありつけず。
笠岡の製糸業を始め、小田・後月郡一帯の養蚕農家にとっても大きな打撃となった。
昭和恐慌化の鴨方
1930年3月から株式市場も一斉に下落をはじめ、物価の下落に連動した。
生糸55%、綿糸52%、米50%の下落を記録。
米と繭の日本農業を直撃することになった。
産業界は極度の不振に陥っており、首切り・合理化の嵐の中で失業者が急増した。
出稼ぎ者の帰村が始まり、農村は農産物の下落と帰村者の増加によって負債をかかえる農家が増加。
農村恐慌に突入することになった。
鴨方町および六條院村では、麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。
生糸の輸出減退は養蚕農家に甚大な影響を与えたが、
鴨方町では昭和期に入って急激な普及をみせていた矢先の不況到来であった。
養蚕農家数を見ると、
1912年(大正元) 7戸
1920年(大正 20戸
1926年 171戸
1930年 449戸
繭の価格は1929年上繭一貫 7.6円
1932年 2.80円。
次第に養蚕から手を引く農家が増え。1939年には105戸まで減少した。
農家副業としての麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方法は、
制帽工業と葉煙草に見い出そうとする農家が増えた。
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「笠岡市史第三巻」
昭和初期の小田郡の養蚕業の動向
城見村・昭和3年 69戸 871貫 5.522円
城見村・昭和5年 80戸 1.100貫 4.268円
城見村・昭和7年 74戸 661貫 1.784円
(管理人記・養蚕農家は大冝・用之江が多く、茂平は少ないと思える)
昭和恐慌は、特に生糸と繭の暴落に始まる農村恐慌となって現れた。
岡山県下でも上繭貫当たり平均価格が、昭和4年の7.46円から翌5年の3.70円と半値に下げている。
昭和5年、米価も全国的に急反落した。
「大学は出たけれど」と大学卒業生も仕事にありつけず。
笠岡の製糸業を始め、小田・後月郡一帯の養蚕農家にとっても大きな打撃となった。
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