しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天草四郎

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・長崎県島原市  島原城





「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

島原の役

寛永11年から3年間、九州の涯、島原領と天草領では凶作がつづき、飢饉がおこった。
14年の春からは餓死する者がふえた。
麦も出来ず、夏は、旱魃で田は地割れし、苗一本育たない。
盗賊が横行して人心が動揺し、不安は高まった。
不安に流言はつきものだ。流言は流言を生み、人々の恐怖をさらに煽った。

将軍家光の病状も入っている。
実は死亡したのではないかという風説がたった。
家光の不例を背景にして、紀州さまが謀反をおこされるの、牢人衆が一揆をおこすのという評判が伝わった。

九州ではさらに不思議な天然現象がおこった。
秋に入ったというのに、まるで春の花が狂い咲いた。

この地方は、旧領主有馬氏以来、切支丹信仰が民衆の間にしみこんでいる。
次の利用主松倉重政は、過酷な民政をしいた。
今こそわれらは伴天連を信じて、年来われらを苦しめてきた松倉重政と天草島を支配する寺沢家に対して一揆をおこすときだ、と、圧政に苦しむ百姓たちが立ちあがったのが、
そもそも島原役のはじまりだ。

この一揆の総大将として、みなから擁立されたのが、島原領大矢野村の庄屋益田甚兵衛の一子、四郎時貞という美少年だった。









原城

島原の乱、原城跡は、いまはもう一面芋畑です。
丘があり、ちょっとした石垣が残っています。

オランダは、ちょうど平戸に二艘あり、一艘は大急ぎで南へ領海を離れる。
幕府の命令で一艘は砲撃にあたる。いやいやながらでしょう。

「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行









天草役は幕府に種々の教訓を得させた。
原城の指揮をとったのも牢人なら、包囲軍のなかでも牢人たちがここぞ出世の機会とばかりに、奮戦している。
大坂の役後、諸大名の改易によって失業した浪人群の脅威を目の当たりに見た幕府は、これ以後浪人取り締まりを厳重にするようになった。

幕府はその実力低下を満天下にさらした。
また、それに劣らず、諸大名の武力低下も暴露された。

世はいよいよ泰平となり、のち幕末の自己崩壊を迎えるのである。





撮影日・2012年5月8日


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