場所・岡山県倉敷市真備町 (倉敷市真備支所)
吉備真備
奈良朝の政治、学術、文化の上に吉備真備の残した足跡は大きい。
その出生は吉備郡真備町八田に生まれたと伝えられる。
父が下道朝臣(しもつみちあそん)国勝という勢力者だったから、真備は早くから奈良の都へ上って学問をし、
23歳の春には派遣学徒として唐へ渡った。
同行の中に当時16歳の阿倍仲麻呂もいた。
この地で真備は19年間にわたって、儒学、暦学、天文、度量衡、武術、音楽など多方面の学問芸術を習得し、
帰朝すると大学助に就任した。
同時に皇太子の教育を担当する東宮学士という役目も与えられる。
この皇太子が孝謙天皇で、真備は再度、遣唐副使として唐にわたるのである。
この再唐にさいして真備には大きな役目が課せられていた。
それは唐の名僧鑑真和上を日本へ招聘することである。
仏教の権威を高めるため、どうしても高僧の来朝が必要だった。
その後の日本仏教界に彼が重きをなしたことはいうまでもない。
天平勝宝押勝の乱を、軍師として鎮圧した。すでに70歳だった。
晩年は愛用の琴一面をたずさえて郷里に帰り、光風霽月を友にして余生を送ったという。
「岡山の人物」 黒崎英明 岡山文庫 昭和46年発行
撮影日・2011年7月10日
吉備真備
奈良朝の政治、学術、文化の上に吉備真備の残した足跡は大きい。
その出生は吉備郡真備町八田に生まれたと伝えられる。
父が下道朝臣(しもつみちあそん)国勝という勢力者だったから、真備は早くから奈良の都へ上って学問をし、
23歳の春には派遣学徒として唐へ渡った。
同行の中に当時16歳の阿倍仲麻呂もいた。
この地で真備は19年間にわたって、儒学、暦学、天文、度量衡、武術、音楽など多方面の学問芸術を習得し、
帰朝すると大学助に就任した。
同時に皇太子の教育を担当する東宮学士という役目も与えられる。
この皇太子が孝謙天皇で、真備は再度、遣唐副使として唐にわたるのである。
この再唐にさいして真備には大きな役目が課せられていた。
それは唐の名僧鑑真和上を日本へ招聘することである。
仏教の権威を高めるため、どうしても高僧の来朝が必要だった。
その後の日本仏教界に彼が重きをなしたことはいうまでもない。
天平勝宝押勝の乱を、軍師として鎮圧した。すでに70歳だった。
晩年は愛用の琴一面をたずさえて郷里に帰り、光風霽月を友にして余生を送ったという。
「岡山の人物」 黒崎英明 岡山文庫 昭和46年発行
撮影日・2011年7月10日
私は、両親が奈良に居住していたので奈良説をとりますが、奈良にも真備町説の人がいます。