ケンペル「江戸参府旅行日記」 訳者・斎藤信 東洋文庫 昭和52年発行
第十二章・江戸の町・江戸城・拝謁と告別
1691年(元禄4)3月
江戸の町と江戸城 2,3の事件 拝謁と告別
江戸湾は、海底が沼土のようで非常に浅いから、
荷物を運ぶ船は、町から1~2時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。
幾つかの幅広い堀と木を植えた高い土堤とで分断され、それで大火を防ぎ、火が燃え広がることのないよう目的を達している。
たくさんの地方出身の人や土着の市民や宗教関係の人たちが、この町の人口を非常に多くしている。
それに、幕府の役人や、全国からの諸大名の家族がこれに加わる。
(江戸城・巽櫓)
江戸の町の支配は仕方に関しては、長崎や大阪と同様であった。
毎月交替する二人の奉行が全市のうえに置かれ、これを支配している。
3月14日
幕府の役人【宗門改め】が丁寧な挨拶に加え、我々の到着を参政官に報告した旨知らせてきた。
3月15日
裁縫師が、将軍に献上するヨーロッパ製の敷布を仕来たり通りに折り畳み、止め縫いした。
3月16日
摂津守が私的に、健康を尋ねに来た。
3月17日
宿舎の近くで今朝、また火事があった。
3月18日
謁見の時、将軍に献上するすべての品を整理するのに時を過ごした。
夕刻に大火が起こり600軒が焼けたが、4時間後にようやく消えた。
放火犯人の仕業で逮捕されたという。
3月20日
摂津守は、この28日には、将軍に謁見がかなうと思われると使者をよこした。
3月21日
大通詞は宗門改めの所に赴き、謁見の時には駕籠に乗ってお城にいかせてほしてと願い出た。
3月23日
小通詞を通じて、平戸侯に一瓶の火酒を贈った。
わが国民が以前に侯の父上の庇護のもとにあったからである。
正午、恐ろしい地震が起こり大きな音をたてて揺れた。
3月24日
側用人で将軍のお気に入り牧野備後は使いをよこして
カピタンにオランダのチーズを欲しいと言ってきた。
貯えの中から贈った。
3月25日
将軍や幕府の高官への贈り物を分け、きちんと整理した。
将軍は別として、
われわれが贈り物をしたり、頭を下げたりして敬意を表さなければならない高官たちは、次の人々である。
一・御老中。5人の年老いた人のことである。
二・若年寄。4人の下級参事官。
三・寺社奉行。(3人)
四・平戸城主。
五・大目付。(2人)
六・江戸町奉行。二人。
七・長崎奉行。三人。
3月26日
側用人牧野備後の兄が死んで、拝謁は1日延期された。
3月27日
将軍の侍医が、私のとこに2~3の病気についての助言を求めに来た。
3月28日
「明日将軍に拝謁が許されるので、早朝城中に出向かれ」と知らせに来た。
(江戸城図屏風)
3月29日
(江戸城大手門)
将軍に贈る品物は城へ運ばれ、謁見の大広間に、慣例通り一つ一つ特別の薄い板の台に載せて並べられた。
ヨーロッパの礼服ということで黒い布の外套をかぶっていた。
百人番所という城の大番所まで行き、さらに要請があるまで、待っていなければならない。
(江戸城百人番所)
1時間もたたないうち呼ばれて、二つの立派な門を通り、御殿の正面まで行くと、
そこに武装した兵士が警備し、役人や近習たちがたくさんいた。
御殿の控えの間で、たっぷり1時間ばかり座っていると、公使つまりカピタンを迎えにやってきた。われわれはそこに残っていた。
(江戸城天守台)
カピタンは将軍の高い座所と、献上品が並べてある場所との間で、ひざまずき、頭を畳にするつけ、手足で這うように進むでて、
一言もいわずに全くザリガニと同じように再び引き下がった。
(謁見図)
拝謁の一切の儀式は、こういうあっけないものであった。
毎年大名たちが行う謁見も同じような経過で、名前を呼ばれ、恭しく敬意を表し、また後ずさりして引き下がるのである。
3月30日
朝早く、二人の江戸町奉行、三人の寺社奉行、二人の宗門改めのところに、
贈物を届けるため、馬で出かけた。
夕方5時宿舎に戻った。
3月31日
朝10時、われわれ三人は長崎奉行を訪ねるため馬で出かけた。
一人は暖かい食べ物と濃い茶が出された。
4月1日
明日城中で別れの拝謁を賜る旨の通知を受けた。
4月2日
馬に乗って江戸城に赴き、番所で1時間半待ち、
それから御殿の玄関近くにある36畳敷きの間で、同じくらい待たされた。
(江戸城富士見多門)
(江戸城富士見多門)
カピタンは広場に導かれ、そこで別れの謁見を賜った。
われわれが御殿から退出する前に、三つの台に載せた将軍からの返礼の贈り物、
すなわち時服30領があらかじめ運び出された。
午後には高官がたからたくさんの品を贈られた。
黒い衣類、すなわち礼服である。
(江戸城富士見櫓)
4月3日
残りの役人から礼服が届けられた。
午後1時に、江戸におけるわれわれの一切の業務は終わった。
(江戸城・二重橋)
(江戸城桜田門外)
4月4日
城門は閉ざされたままであった。
4月5日
長崎に向かって帰路についた。
第十二章・江戸の町・江戸城・拝謁と告別
1691年(元禄4)3月
江戸の町と江戸城 2,3の事件 拝謁と告別
江戸湾は、海底が沼土のようで非常に浅いから、
荷物を運ぶ船は、町から1~2時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。
幾つかの幅広い堀と木を植えた高い土堤とで分断され、それで大火を防ぎ、火が燃え広がることのないよう目的を達している。
たくさんの地方出身の人や土着の市民や宗教関係の人たちが、この町の人口を非常に多くしている。
それに、幕府の役人や、全国からの諸大名の家族がこれに加わる。
(江戸城・巽櫓)
江戸の町の支配は仕方に関しては、長崎や大阪と同様であった。
毎月交替する二人の奉行が全市のうえに置かれ、これを支配している。
3月14日
幕府の役人【宗門改め】が丁寧な挨拶に加え、我々の到着を参政官に報告した旨知らせてきた。
3月15日
裁縫師が、将軍に献上するヨーロッパ製の敷布を仕来たり通りに折り畳み、止め縫いした。
3月16日
摂津守が私的に、健康を尋ねに来た。
3月17日
宿舎の近くで今朝、また火事があった。
3月18日
謁見の時、将軍に献上するすべての品を整理するのに時を過ごした。
夕刻に大火が起こり600軒が焼けたが、4時間後にようやく消えた。
放火犯人の仕業で逮捕されたという。
3月20日
摂津守は、この28日には、将軍に謁見がかなうと思われると使者をよこした。
3月21日
大通詞は宗門改めの所に赴き、謁見の時には駕籠に乗ってお城にいかせてほしてと願い出た。
3月23日
小通詞を通じて、平戸侯に一瓶の火酒を贈った。
わが国民が以前に侯の父上の庇護のもとにあったからである。
正午、恐ろしい地震が起こり大きな音をたてて揺れた。
3月24日
側用人で将軍のお気に入り牧野備後は使いをよこして
カピタンにオランダのチーズを欲しいと言ってきた。
貯えの中から贈った。
3月25日
将軍や幕府の高官への贈り物を分け、きちんと整理した。
将軍は別として、
われわれが贈り物をしたり、頭を下げたりして敬意を表さなければならない高官たちは、次の人々である。
一・御老中。5人の年老いた人のことである。
二・若年寄。4人の下級参事官。
三・寺社奉行。(3人)
四・平戸城主。
五・大目付。(2人)
六・江戸町奉行。二人。
七・長崎奉行。三人。
3月26日
側用人牧野備後の兄が死んで、拝謁は1日延期された。
3月27日
将軍の侍医が、私のとこに2~3の病気についての助言を求めに来た。
3月28日
「明日将軍に拝謁が許されるので、早朝城中に出向かれ」と知らせに来た。
(江戸城図屏風)
3月29日
(江戸城大手門)
将軍に贈る品物は城へ運ばれ、謁見の大広間に、慣例通り一つ一つ特別の薄い板の台に載せて並べられた。
ヨーロッパの礼服ということで黒い布の外套をかぶっていた。
百人番所という城の大番所まで行き、さらに要請があるまで、待っていなければならない。
(江戸城百人番所)
1時間もたたないうち呼ばれて、二つの立派な門を通り、御殿の正面まで行くと、
そこに武装した兵士が警備し、役人や近習たちがたくさんいた。
御殿の控えの間で、たっぷり1時間ばかり座っていると、公使つまりカピタンを迎えにやってきた。われわれはそこに残っていた。
(江戸城天守台)
カピタンは将軍の高い座所と、献上品が並べてある場所との間で、ひざまずき、頭を畳にするつけ、手足で這うように進むでて、
一言もいわずに全くザリガニと同じように再び引き下がった。
(謁見図)
拝謁の一切の儀式は、こういうあっけないものであった。
毎年大名たちが行う謁見も同じような経過で、名前を呼ばれ、恭しく敬意を表し、また後ずさりして引き下がるのである。
3月30日
朝早く、二人の江戸町奉行、三人の寺社奉行、二人の宗門改めのところに、
贈物を届けるため、馬で出かけた。
夕方5時宿舎に戻った。
3月31日
朝10時、われわれ三人は長崎奉行を訪ねるため馬で出かけた。
一人は暖かい食べ物と濃い茶が出された。
4月1日
明日城中で別れの拝謁を賜る旨の通知を受けた。
4月2日
馬に乗って江戸城に赴き、番所で1時間半待ち、
それから御殿の玄関近くにある36畳敷きの間で、同じくらい待たされた。
(江戸城富士見多門)
(江戸城富士見多門)
カピタンは広場に導かれ、そこで別れの謁見を賜った。
われわれが御殿から退出する前に、三つの台に載せた将軍からの返礼の贈り物、
すなわち時服30領があらかじめ運び出された。
午後には高官がたからたくさんの品を贈られた。
黒い衣類、すなわち礼服である。
(江戸城富士見櫓)
4月3日
残りの役人から礼服が届けられた。
午後1時に、江戸におけるわれわれの一切の業務は終わった。
(江戸城・二重橋)
(江戸城桜田門外)
4月4日
城門は閉ざされたままであった。
4月5日
長崎に向かって帰路についた。
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