軍国少年や軍国少女のコアな世代は、およそ大正14年生~昭和4年生と思っている。
周囲が軍事一色の時代に育ち、分別つくまもなく年少兵になったり、
竹槍で本気で米兵を殺す(それ以外の世代は訓練に出る意識)愛国少女、
いちばん時代にほんろうされれている。
脚本家・橋田壽賀子は、その大正14年の生まれ。
周囲が軍事一色の時代に育ち、分別つくまもなく年少兵になったり、
竹槍で本気で米兵を殺す(それ以外の世代は訓練に出る意識)愛国少女、
いちばん時代にほんろうされれている。
脚本家・橋田壽賀子は、その大正14年の生まれ。
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高等女学校生であればわかぬでもないが、
女子師範学校が、一般的に限度の時代に日本女子大にまで進んだ筆者が、
軍国少女であったのは残念であるし、橋田壽賀子は度が過ぎた調子者であったように思う。
おそらく、嬉々として”お国のため”に労働した大学生は(高女も含め)少数のはずだ。
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高等女学校生であればわかぬでもないが、
女子師範学校が、一般的に限度の時代に日本女子大にまで進んだ筆者が、
軍国少女であったのは残念であるし、橋田壽賀子は度が過ぎた調子者であったように思う。
おそらく、嬉々として”お国のため”に労働した大学生は(高女も含め)少数のはずだ。
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「渡る世間にやじ馬ばあさん」 橋田壽賀子 大和書房 2021年発行
太平洋戦争、死んでも忘れられない光景がある
あの太平洋戦争の頃はみんな軍国少女ですよ。
私なんかガチガチの軍国少女でした。
聖戦だと言われていたから、日本はよい戦争をしているんだ、
そう思っていました。
鬼畜米英だとか、お国のためには我慢しなければならないということを、
とことん教えられ洗脳されていましたから、食べる物がなくても、
ちっともつらいとは思わなかった。
いやお国のためなら死んでもいいと、本気で思ってた。
疑うことも知らず、そういうのが当たり前だと、
誰もが同じ価値観を持った時代でしたから。
戦争が始まったのは堺高等女学校の二年生。
二年後に日本女子大学校国文科に入学。
そのうち、授業どころじゃなくなって、学徒動員が始まった。
毎朝炒り豆と焼き米を持ってもんぺをはいて、
防空頭巾をかぶって、女子大の寮から工場へ行くわけですよ。
それで点呼があって、一斉に配電盤のビスを留める作業をやるのね。
悲壮感なんてありませんでした。
”ああ、きょうも一日、お国のために働いた”
って実にさわやかでしたよ。
やがて空襲がひどくなり学校は閉鎖、大阪に戻り、
海軍経理部に動員されました。
昭和20年の7月に,堺市が空襲を受け、急いで下宿先から堺に向かったけど
一面の焼け野原で実家はあとかたもなく焼けちゃって、熱風で近づけないんですよ。
いまも目に浮かぶのは、
あちこちに黒焦げの死体が折り重なるようになっていた光景です。
これから一ヶ月ほどがたって、あの”玉音放送”。
将校さんたちもいて、校庭に二百人ぐらいいたかな。
何がなんだかわからなくて、将校さんらに聞いても、
”戦争が終わった”とだけで、日本が負けたとは絶対に言わないんですよ。
でも、アメリカ兵が日本に上陸するという噂が広まって、
どうせ死ぬんだったら、
アメリカ兵がやってきたら刺し違えて死んでやろうと、
そんな恐ろしいことを本気で考えていました。
敗戦のときが20歳。
あの戦争から今年で60年。
戦争に協力したという責任は、やはり感じるんです。
その気持ちが強くて『おしん』の亭主には、
若者を戦場に送った責任をとらせて自殺させたんです。
私の思いを、せめて託したいと思ったんです。
「女性セブン」2005年8月11日号
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