しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大正9年・尼港事件②”尼港の惨劇”

2023年07月23日 | 大正

尼港の惨劇にたいし、日本は北樺太を占領した。
その対抗措置は米国や他国から不審な目でみられた。

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「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  

尼港事件


1920年3月11日、武器引き渡しを迫るパルチザンに、日本軍が民間人と共にパルチザンを襲撃した。
ところが中国の艦隊や、朝鮮人住民もパルチザンに味方し、日本人大半が戦死した。
尼港の状況は4月になって断片的に東京に伝わってきた。
尼港事件は、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇で、日本の国際的な孤立を際立たせていた。
しかし国内ではその点に目は向かず、犠牲者に外交官・民間人・女性子供が含まれているのに衝撃が走った。
4月9日、原内閣は救援軍派遣を閣議決定する。
6月3日、事件現場の尼港に到着。街は焼き払われ、捕虜は全員殺害されていた。
外務省は、日本人735名殉難者とする文書を発表した。

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「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 

1920(大正9)年2月
尼港を占領中の日本軍が4.000人のパルチザン軍に包囲され降伏した。
3月、協定を破って奇襲攻撃を仕掛けた。副領事を始め兵士・居留民7.000人余が全滅した。
5月、日本の救援部隊を前に日本人捕虜・反革命派ロシア人全員の殺害に及んだ。
日本は報復措置として7月に北サハリンを占領した。

1920年4月、米国撤兵完了。
1920年夏、英仏伊も撤兵完了。
米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

尼港事件は各国の対ソ経済封鎖解除が進行し、通商交渉が開始されていた時期に起こった。
日本に対しても、20年2月に対日講和を駐仏大使に打診されていた。


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「岡山県郷土部隊史」 岡山県 昭和41年発行


赤衛軍は、大正9年3月12日までに武装解除して降伏するよう強い要求を申し込んできた。
日本軍は領事ならびに居留民と協議したが、
武装解除して敵に降伏することは帝国軍人として絶対できないから、
要求期日の前夜に夜襲を決行して、
敵の首領を倒し、政治犯として投獄されているロシア人有力者を救出して日本軍の味方にすれば、尼港の治安も回復できるとう結論に達した。
石川大隊長は敵の宿舎を襲撃したが、逆にわが軍を包囲され、失敗した。
降伏し、武装を解除されて投獄した。
これよりさき避難民が氷上を北樺太に避難してきて、
はじめて内地に伝わり日本政府も事態の重大さに驚いた。

日本政府は在留民の保護と権益確保のため、
大正9年4月北部沿海州派遣軍を尼港に派遣した。
大正9年4月30日岡山の山砲兵第二聯隊に出動命令が出た。
5月17日岡山を出発、宇品から北上、いよいよ尼港に向かったが
船を沈め、日本軍のそ上を妨害して逃走したので、
大隊は黒竜江の村に上陸、休養をとることになった。

一方多門大佐の指揮する支隊は尼港を挟撃する態勢をととのえた。
そこで敵は尼港を放棄することに決し、
5月24日投獄者全員を縛り、桟橋附近に連れ出して惨殺し、
死体は全部黒竜江に投げ込んだ。
そうしてわが軍の進撃の近いことを知ったバルチザンは、
6月3日全市に放火して逃亡してしまった。

尼港は事件前、5万の人口を有する黒竜江唯一の良港で相当繫栄しており、
在留同胞は4百余名、軍人を合すると7百余名が在留していたが、
その全部が惨殺され、
わが軍が占領した時はわずかに支那人の妾となった4.5名の者がいたのみであった

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「日中戦争全史・上」 笠原十九司著 2017年 高文研発行

4月になって日本軍尼港守備隊全滅の情報を得た日本政府は、ただちに尼港救援隊出動を決定。
2.000人の部隊を小樽から派遣したが、アムール川河口は結氷のため、接近できず、解氷期の5月になってようやく軍事行動を開始した。
日本軍が尼港に進撃すれば、俘虜として収監されている日本人の生命安全が危うくなることへの配慮はなされず、パルチザンから尼港奪回の大義名分にこだわった。
日本軍を阻止できないと判断した赤軍司令官は、5月24日から25日にかけて、約130人の獄舎の日本人捕虜は、アムール河畔に連れ出されて殺害された。
尼港から撤収したパルチザンは、市の大部分に火を放って破壊した。

この事件は、「尼港の惨劇」の悲報として、日本国内でセンセーショナルに報道された。
一次尼港事件(3月)
6月25日・大阪朝日新聞
最後の最後まで我が軍は死力を尽くして奮闘した、領事が妻子を銃殺した時の胸中や如何。
街区に横たわる死骸。
居留民は3月13日以来毎日門口に引き出されて惨殺され、420名中残ったのは僅かに8名であった。
二次尼港事件 (5月)
6月7日・大阪朝日新聞
凶悪言語に絶する尼港の過激派、邦人130名を殴殺する。
残留民を悉く殺戮。
尼港の虐殺五千名。アムール川の氷上に投棄されし同胞。
児童は岩石に叩きつけて打殺し、女は凌辱後裸踊りさして銃殺。
板壁に残る絶筆「5月24日午後12時を忘れるな」。
という大中の見出しをつけて報道された。

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