しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陽明丸とシベリア出兵⑦「シベリア出兵」・・・2

2019年06月21日 | 大正


「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記②



ロシア革命
1917年11月ボルシェビキは政権を樹立した。
レーニンは、民衆の求める「平和」を得ようと、第一次世界大戦の全交戦国に、国土の併合や賠償金の課すことのない即時講和を提案したが、各国は無視した。
そんななか、ドイツは革命で混乱するロシアへ攻勢に出た。そこでドイツに単独講和を申し入れた。
優位に立つドイツは、領土の割譲を迫る。
ウクライナの独立、巨額の賠償金などを受諾し講和条約が調印された。
独露の講和は英仏に衝撃を与えた。
東部戦線は消滅し、敵国ドイツが西部戦線に全力で投入してくることが予想されたからだ。
英仏はソビエト政府を倒して、新しいロシア政権に東部戦線を再び構築させようと計画する。

ウラジオストク港
ウラジオストクは軍港と商港、それにシベリア鉄道の起点となっていた。
連合国が供給していた武器弾薬が山となっていた。
そのウラジオストクへの出兵に白羽の矢が立ったのがアメリカと日本だった。
アメリカは1917年にドイツへ宣戦布告していた。

派兵か、自重か
当時の日本にとって、ロシア革命は対岸の火事ではない。
南サハリンや朝鮮半島とは、陸続きで起きた革命だった。
また南満州(日本勢力圏)と北満州(ロシア勢力圏)も隣接する地域で、当時の為政者にとって、切実な安全保障問題だった。
元老筆頭、枢密院議長、陸軍元帥、の山県有朋の意見が出兵を左右する。
「およそ刀を抜くときには、まずどうして鞘におさめるか、それを考えた後でなければ決して柄に手をかけるものではない」
山県は中・英・米との共同出兵を理想としていた。

長州出身の寺内正毅首相も、出兵に消極的だった。
外務大臣の本野一郎は熱心な出兵推進論者だった。英仏に武力で貢献することが列強の地位を獲得する策だった。
公家出身の元老、西園寺公望は「出兵の理由は後世の人びとをも納得させるほどでなければならない」と書く。
大学教授など9人「出兵九博士」が出兵論を緊急出版した。

ウラジオストク出兵
ロシアへの干渉は早くから始まっていた。
1917年11月29日、ソビエトが市内全域の掌握を宣言した。その翌日ウラジオストク総領事は、日本の軍艦の出動を要請した。
海軍は、在外公館から要請があれば、日本人保護を義務付けられていた。
12月31日、連合国ウラジオストク領事館は、連合国に軍艦派遣を要請した。
1918年1月3日、英国から海軍出動を通告された。
寺内首相は英国よりも先に、ウラジオストクに入港させようとした。
軍艦が無告で入港すること自体が、主権の侵略だった。
4月、日本人貿易商人が4名殺傷事件が発生し、日英の陸戦隊が上陸した。

田中義一参謀次長
陸軍の出兵中心人物は田中参謀次長である。
田中は四つの利点をあげた。
ドイツやオーストリアが東へ勢力を伸ばすのを阻止する。
中国を日本の味方にすること。
連合国への信義を果たす
シベリアに親日政権をつくり「指導」していく
田中にすれば、欧州が世界大戦の間に、大陸でさらに勢力を伸ばす一石四鳥のよい事ずくめである。
参謀本部はバイカル湖を進出の限界として、シベリア東部を掌握しようとした。
さらに北満州を支配する。

コサック兵
ロシア帝国はコサック人を辺境の防衛に従わせていた。コサックはロシア帝国への忠誠心が篤かった。
参謀本部はコサック兵を援助し、親日政権の神輿に担ごうと接触していた。

1918年2月、セニューノフを担ぎ、日本人義勇兵をつけたが、4月撃退され満州里に退いた。
1918年7月、ホルバートが参謀本部と反革命軍により担がれ「全ロシア臨時政府」を沿海州で発足させた。

チェコ軍の救出
チェコ軍とはハプスブルグ家から逃れロシア帝国に移住した子孫と、大戦でロシア軍に捕虜となったチェコ人による部隊で、ロシアに協力してオーストリアと戦う、独立につなげようとしていた。
だがドイツ・ロシアの講和でロシアに居場所をなくした。
英仏はチェコ軍をドイツ戦に利用しようとした。
シベリア経由で欧州へ向かうチェコ軍との連絡が途絶え、「チェコ軍の危機」が噂され、英仏伊は、救援の出兵を米日に求めた。


アメリカの出兵
1918年7月、アメリカのウイルソン大統領は「日米両国とも7.000人を限定した地域に派遣する」する方針を決めた。
寺内首相は、
「この際、ウラジオストクからシベリアまで出兵したい。
そうしないと、シベリアにはドイツ勢力が広がり、アメリカはシベリア鉄道を占領するおそれがある」と原敬に語った。
日本は10.000~12.000名出兵となった。
米長官は「チェコ軍の救援よりロシアに対する干渉である」と憂慮した。
出兵によりモスクワでは連合国への締め付けが激しくなり、日本総領事はモスクワを引き揚げた。
以後7年間、東京とモスクワは国交がなくなった。
出兵宣言の前後、日本各地では米騒動が本格化した。

新聞操縦
田中義一参謀次長は世論を味方にしようと機密費を新聞界に注ぎ込んでいた。
経営難だった読売新聞を強引に社論を転換させた。
シベリア出兵の「美談」や「労苦」を記者に書かせ、露骨な世論操作を行っている。
宣伝活動の陸軍組織はここから始まった。
大阪朝日新聞や中央公論など、次々に政権に牙を抜かれたていった。

 

(田中義一大将像)



ウラジオストクへの出兵
1918年8月、ウラジオストクに上陸。
ほぼ同時に英仏米が上陸した。
日本軍の兵数は突出していた。
日・・・58.000人
米・・・9.000
英・・・7.000
仏・・・1.300
伊・・・1.400
中・・・2.000
加・・・少数
なお、ほぼ同時期にキリミア半島など南ロシアに、仏英ほかの干渉軍が75.000~85.000いた。

ザバイカル州への出兵
日本軍は沿海州のみならずアムール州、さらにザバイカル州へ進軍しようとした。
9月6日、セミョーノフやチェコ軍と連携しザバイカル州の州都チタを占領した。
出兵早々、日米間に亀裂が走った。

朝鮮人への標的
19世紀から、ロシア沿海州には朝鮮人の移住者が多かった。
朝鮮半島の植民地統治を安定させるため、参謀本部はシベリア出兵という機会を逃がさなかった。
朝鮮人の武装解除をすすめ、抗日活動を弱めた。
その後、結果的にボルシェビキに身を投じて日本軍と戦う者が増えた。

原内閣
シベリア上陸40日後、1918年9月米騒動で寺内内閣が倒れ原敬が首相になった。
12月、兵数を24.000人に削減を発表した。
アメリカは日本の指揮権を認めず、共同出兵は名ばかりであった。
シベリア鉄道の管理がもめ、連合国管理委員会のもとに置かれることになった。

第一次大戦の終結
1918年11月、ドイツ皇帝は亡命し、ドイツは休戦に署名した。
ソビエト政府はプレストリトフスク条約を破棄した。
1919年2月、赤軍はキエフに入り、ウクライナ全域を支配下に置いた。
他方、連合国は干渉を本格化させたが、ロシア中央部に進撃できなかった。


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