しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

児童の生命

2015年11月27日 | 昭和20年(終戦まで)
学校で事故や事件が発生した場合、
教員が真っ先に行動するのは“児童の安全確保”であるが、・・・・・ある時代にはそれよりもっと大切なものがあった。

福山・岡山はじめ空襲は夜が多かったが、もし日中の授業中に遭遇していたら
校長先生は児童や教員を投げ捨てて一人、奉安殿に向かったのだろうか?(後述を素直に読めば、どうもそのようだ)


以下、
「笠岡市史3巻」より転記する。

皇国民の育成を目的をする国民学校では、御真影や教育勅語を保管する奉安殿が鉄筋コンクリートなど燃えにくい構造でできていた。
昭和20年6月、笠岡町女子国民学校の訓導であった女子教員の回想を記述しておく。

「ある日の深夜、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。急いで学校にかけつけてみると、校長先生がいつでも御真影を袋に入れて持ち出せるように待機しているのを見て御真影や勅語の大切さ、身をもって守ろうとする校長先生の姿に胸のつぶれるような思いがいたしました」

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