「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)
【座談会】
明治生まれ
・学校は、本校が宗岡、分教場が小平井住山と西大戸に分かれていた。
現在の地には大正4年9月に移転した。
・読み書きそろばんが主で、理科や図工は5年生から、唱歌は君が代を歌った程度。
・服装は、着物・帯・前だれ・そうり履き、冬は袖なしを着ていた。
・勉強道具は風呂敷に包んで腰にくくっていた。
・パンツをはいている子が少なかった。
”ひざを曲げ””足を上げ”の号令の時にはまる見えになっていた。
・石筆で石板に書いて習った。
・勉強は真田くみや牛飼いが終わらなければしてはならなかった。
・明治41年に学生改革があり、4年で卒業して、また6年で卒業式をしてもらった。
・尋常高等小学校は、大井になかったので東大戸と小平井は笠岡へ、西大戸は金浦へ行かされた。
・遊びは、ぶちごま、たこ、竹馬、なわとび、陣取り、お宮で木に縄をかけてブランコ。
・おはじき、お手玉、チリンコ、けまり。
(「明治から大正初期の服装」全員和服、最前列はべべちゃんこ、右側の女先生は横を向いている、頭は束髪)
大正生まれ
・大井は陸上競技が優秀で、他校との合同運動会では優勝旗を8本も持って帰ったことがある。
・女子は5年まで着物、6年から白黒の縞のスカートをはくようになった。
・授業の始まりと終わりは高等2年の生徒が太鼓を叩いて知らせていた。
・体操の時間には道上池で水泳訓練をした。
・遊びは、ケンケン相撲、背とび、リームころがし、ブリキごま
・まりつき、お手玉、チリンコ
(「高等科生徒」、大井小には大正5年4月高等科ができ、大井高等尋常小学校と改称した)
(「昭和初期・尋常科生徒」)
昭和初期生まれ
・「ハナハト」から「サイタサイタ」に変わった。
・1クラス72~73人の大学級だった。しかし男子と女子が並ぶことはなかった。
・満州の兵隊さんにウサギの皮を送るというので授業そっちのけで、学校の裏山でウサギを追い回した。
・紀元2600年の記念式典があって、旗行列や運動会をよくした。
・遊びは、ラムネ玉、釘立て、パッチン、竹とんぼ、コマ。
昭和中期生まれ
・開墾開墾で、小平井の分教場跡、六道、門田、鳴淵などへ鍬をかついでよくいった。
畑には芋やとうきびを植えて、学校でふかしたり、焼いて食べていた。
・運動場は大半が芋畑で、勉強も運動もなかった。炭焼きをして学校で使っていた。
・遊ぶことは少なかった。
・学校から帰れば、牛飼い、さなだ組み、子守、トラックや魚売りの押し子(才の神の坂を押してお金をもらう)
・出征兵士を吉浜まで送りに行った。大井出身の兵士は大井村駅まで旗をもってみんなで送ったものだ。
【座談会】
明治生まれ
・学校は、本校が宗岡、分教場が小平井住山と西大戸に分かれていた。
現在の地には大正4年9月に移転した。
・読み書きそろばんが主で、理科や図工は5年生から、唱歌は君が代を歌った程度。
・服装は、着物・帯・前だれ・そうり履き、冬は袖なしを着ていた。
・勉強道具は風呂敷に包んで腰にくくっていた。
・パンツをはいている子が少なかった。
”ひざを曲げ””足を上げ”の号令の時にはまる見えになっていた。
・石筆で石板に書いて習った。
・勉強は真田くみや牛飼いが終わらなければしてはならなかった。
・明治41年に学生改革があり、4年で卒業して、また6年で卒業式をしてもらった。
・尋常高等小学校は、大井になかったので東大戸と小平井は笠岡へ、西大戸は金浦へ行かされた。
・遊びは、ぶちごま、たこ、竹馬、なわとび、陣取り、お宮で木に縄をかけてブランコ。
・おはじき、お手玉、チリンコ、けまり。
(「明治から大正初期の服装」全員和服、最前列はべべちゃんこ、右側の女先生は横を向いている、頭は束髪)
大正生まれ
・大井は陸上競技が優秀で、他校との合同運動会では優勝旗を8本も持って帰ったことがある。
・女子は5年まで着物、6年から白黒の縞のスカートをはくようになった。
・授業の始まりと終わりは高等2年の生徒が太鼓を叩いて知らせていた。
・体操の時間には道上池で水泳訓練をした。
・遊びは、ケンケン相撲、背とび、リームころがし、ブリキごま
・まりつき、お手玉、チリンコ
(「高等科生徒」、大井小には大正5年4月高等科ができ、大井高等尋常小学校と改称した)
(「昭和初期・尋常科生徒」)
昭和初期生まれ
・「ハナハト」から「サイタサイタ」に変わった。
・1クラス72~73人の大学級だった。しかし男子と女子が並ぶことはなかった。
・満州の兵隊さんにウサギの皮を送るというので授業そっちのけで、学校の裏山でウサギを追い回した。
・紀元2600年の記念式典があって、旗行列や運動会をよくした。
・遊びは、ラムネ玉、釘立て、パッチン、竹とんぼ、コマ。
昭和中期生まれ
・開墾開墾で、小平井の分教場跡、六道、門田、鳴淵などへ鍬をかついでよくいった。
畑には芋やとうきびを植えて、学校でふかしたり、焼いて食べていた。
・運動場は大半が芋畑で、勉強も運動もなかった。炭焼きをして学校で使っていた。
・遊ぶことは少なかった。
・学校から帰れば、牛飼い、さなだ組み、子守、トラックや魚売りの押し子(才の神の坂を押してお金をもらう)
・出征兵士を吉浜まで送りに行った。大井出身の兵士は大井村駅まで旗をもってみんなで送ったものだ。
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