しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

焼夷弾

2021年01月20日 | 昭和16年~19年


「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行


焼夷弾

1944年7月サイパン島失陥によって日本本土は、B29爆撃機の行動範囲に入った。
11月1日から東京上空に姿を見せていたB29は25日、85機の編隊で襲来、中島飛行機武蔵製作所を爆撃した。
B29による本格的空襲の始まりだった。

東京は約100回、
中でも1945年3月10日は史上最多の被害者を記録した。
死者・行方不明者10万人以上と推定される。
政府は防空法で、国民に消火活動を義務づけていた。これを守って多数の人が逃げ遅れた。
1945年3月からルメイ司令官に着任すると、低空飛行で焼夷弾を使い、広範囲の市街地を焼失さす方針に変更した。
地上からの攻撃を少しでも避けるため、出撃も夜間にした。


6月15日までに目標とされた6大都市の工業地域は焼き払われ、それ以降は地方の中小都市に移った。
北海道はマリアナ諸島を飛び立つB29の航続圏外だったことから空母艦載機が攻撃した。


「空戦規則」に違反
1923年空戦規則が作られた。一般市民への空襲を禁止していた。
日本政府はスペイン駐在公使を通じて米政府に国際法違反であると抗議し、見解を求めた。
米側は黙殺し、日本への大規模爆撃を継続した。
日本の主張には、重慶などへの無差別攻撃は正当化しつつ、自らの被害を抗議するという矛盾があった。



・・・・・・


※B29

1943年に量産開始。
2200馬力の新型エンジン4基を搭載。
高い高度でも酸素マスクが不要。
時速587km。
航続距離5300~7300km。
爆弾搭載量9000㎏


※油脂焼夷弾

攻撃目標を燃やすことが目的の爆弾。
M69は、
木造の日本家屋を焼く払うため、瓦屋根を突き通して家屋内にも到達するように開発された。
直径8cm、全長50cmの6角柱形。
19発*2段=38発を束ねてある、クラスター爆弾。
地上約700mでばらまかれた。

開発は、米国ユタ州で日本家屋の町並を再現して実験した。



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