しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

松根油の増産

2021年08月16日 | 昭和16年~19年
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

石油の不足

石油代用品として大豆油・落花生油・ヤシ油・ヒマシ油が産業用に向けられ、
メタノール・エタノール・アセトンがガソリンに代用された。
民間の馬鈴薯・砂糖・酒類はアルコール原料として供出させられ、生ゴムから油を取ることも考えられた。
海軍はついに松の根から油を作る松根油計画に着手し、
農商省は昭和19年10月に松根油急増産大綱を決定した。
「200の松根は一機を一時間飛ばせる」というスローガンで、
農業会を通じ全国民が松根掘りに駆り出された。
一日当たり125万人を動員し、約4万7千の乾溜窯が全国に作られ、
昭和20年6月には松根粗油は月産1万1千キロリットルに達した。

精製技術上の難点はついに克服できず、
敗戦時までに生産された航空機用ガソリンは海軍第三燃料廠(徳山)での480キロだけで、四日市の燃料廠に集められた松根油は精製前に空襲を受けて無駄になった。
松根油にはタール分・灰分が多く、いったん濾過したものでも燃料タンクに放置すると、濾過器がつまる
敗戦後アメリカ軍が試験的にジープに用いたところ、数日でエンジンが止まり使い物にならなかったといわれる。





「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

松根油の増産
昭和19年

前年末から松の根を乾留してガソリン代用の軍需燃料にする松根油増産が始まった。
本年10月農商務省が「松根油緊急増産対策要綱」を決定し、松の根掘りに主婦や生徒児童を動員した。
岡山県も町村ごとに「堀取り挺身隊」を組織して動員した。
12月には乾留釜462を主要地区に設置する計画を立てた。
翌年2月山林局に松根油課が新設され、7月から松根油増産完遂運動が始まった。

しかし、輸送力不足と乾留釜設置がはかどらぬまま敗戦となった。
敗戦後、県内の山々にも掘り返されたままの巨大な松の根が散乱していた。





「福山市津之郷町史」 ぎょうせい  2012年発行

国民学校

昭和20年になると、松やに採取のために、大きな松の木の幹に鋸目を入れ、
そこから流れ出る液を竹の筒に受けるようにしたものを毎日、
集め回ってそれを学校に持って行くようになっていた。

松やには飛行機や戦艦の塗料の原料とされた。

松根油株割兵士が同年6月から講堂に宿泊し、現在の保育所の北方で、
周辺で集められた松の根を割って、乾留して松根油を採取した。
松根油から飛行機燃料などが製造された。




「新修倉敷市史6」

松根油の大増産のため

昭和19年暮れ、政府はにわかに軍用機燃料の原料になる松根油の増産に力を入れ始めた。
翌20年2月314基の乾留釜を新設し、既存の137基と合わせて大増産する計画で、
児島郡では11基、浅口郡で7期、都窪郡で6基新設計画になっていた。
ところが釜の新設が終わらないうちに次の増設割り当てが届くありさま。

松根油は「肥松」と呼ばれる老松の根が原料。
倉敷市では町内会単位に割り当て、市街地周辺の向山、足高山、酒津山などで掘った。
まもなく老松は底をついたが、増産要求は容赦なかった。
翼賛壮年団・警防団・在郷軍人会の会員らを動員し松の根を掘っている。
山の中から松の根を掘り出し、堅い根を割り砕いて乾留するのが重労働だった。
戦争末期には予科練習生少年航空兵も従事した。
それでも増えなかった。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 国民生活の窮迫 | トップ | 元独立臼砲十八大隊の元隊員... »

コメントを投稿

昭和16年~19年」カテゴリの最新記事