しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡の製糸

2015年11月26日 | 江戸~明治
ツアー会社の北関東方面のコースに遠路、群馬県富岡市の「富岡製糸場」見物が多い。
富岡製糸工場は代表的な工場であり、2014年世界遺産になり、保存状態も良好のようで無理もないとは思うが、ひとつ気になることもある。

製糸工場は群馬県富岡にあっただけではない、日本全国どの町にもあった。笠岡にもあった。
そして原料となる繭は、明治から昭和初期まで、どこの田舎にも桑畑があり、養蚕農家があった。

(富岡まで行くより)かつてあった、わが町の製糸と養蚕を知り偲ぶ方がより重要なことではないかと思う。富岡はその次でいい。

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以下、「笠岡市史・3巻」より転記する。

笠岡の製糸

現在笠岡市役所分庁舎が建てられている所は、明治5年笠岡製糸場が建設された歴史的場所である。その製糸場は士族授産事業として作られたものである。

小田県権令矢野光儀は殖産興業を図るため「蚕事の儀は御国産第一の業」として養蚕を奨励し、製糸の有望性に着目し、県の士族授産の方策として製糸場の設立を考えた。

明治5年小田県は福山士族の子女を製糸練習、男を器械公作練習として4人東京に派遣、スイス人に蚕糸製造を習得させた。

県為替方の島田組に命じ製糸場を設けさせた。
島田組は政府から融資を受け、小田県庁の東方に土地を購入し洋風建物の笠岡製糸場を建設することになった。

翌明治7年4月、開業式を盛大に行い60名を収容し事業を開始した。

華々しく新築開業した笠岡製糸場の、その後の経営は不振であり、明治7年12月島田組倒産により事業は停止されてしまった。

明治9年9月、笠岡村や深津村の人ら11名が笠岡製糸場の土地、建物、器械を1500円で払い下げを受け蚕糸製造を再開した。
事業再開後は、繭が安く・輸出価格が高い年は利益が出た。
明治13年「山陽製糸社」を創設し、山陽地方の製糸業を連合して生糸を改良し、輸出することを図った。これによって笠岡製糸場の名声が高まり、広島・愛媛ほかから製糸工女の伝習を受けるため、入社するものが数十名に及び、製糸業の改良に実績を上げている。

大正時代、
賃金は年9回払い、平均10円80銭で地方としては一流であった。
就業時間はだいたい12時間、朝6時半から夕方6時半。8時頃までの夜業は普通。休業日は年間40日、祭り・盆・正月にまとめてとる。男子職員にはほとんど休みはなかった。
大正7年、工女による5日間のストライキあり。
大正9年、糸況が悪化。大正11年に井原の「中備製糸株式会社」と合併、その笠岡工場となった。

昭和7年、
解散し笠岡に一時代を飾った山陽製糸は歴史を閉じた。

中国情勢の変化、アメリカを中心とする輸出の低迷と糸価が暴落。人造綿糸(レーヨン)の出現が引き金になったものと考えられる。
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北川村合併騒動④-1 北川村長の手記(1)(2)

2015年11月26日 | 昭和31年~35年

笠岡市図書館が保管する「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。



(1)
昭和27年9月、新山小学校の校長を止め村長選に立候補した。
9月25日選挙で圧勝した。


(2)
僕が初めて町村合併の構想を持ち出したのは昭和28年の正月の、吉田・新山・北川・小田・中川の5ヶ町村による“中部ブロック”の構想であろう。
当時小田郡中部農業改良普及所が役場と農協の中間にあった。僕が会長をしていた、年始の会合で5ヶ町村案を出したところ「似たもの夫婦だ」「適正規模だ」「善は急げだ」と、町村長、農業委員長全員が賛成してくれた。
僕は4月30日の村議会に「5ヶ町村合併案」を出して、全会一致の賛成をみた。

ところが新山・吉田に異変が起こった。
8月29日の朝、「笠岡市合併内定したから了承願いたい」と両村長から申し出である。
村議を総動員して炎天下、麦刈り田植えもほったらかしで新山・吉田の村長・村議を戸別に訪問し口説きまわったのは、今は水のアワとなった。

残る3ヶ町村合併案を強く主張したのは小田町だった。
村議会では熱はなかったが、反対意見もなかった。
僕は中川村の動向が案ぜられるので単身村長を訪ねた。すると「結局、矢掛へまとまるべきだと考えている」と。
しかし小田町は是が非でも3ヶ町村合併をすると、町長・議長を先頭に婦人部会まで動員して中川村に押し入り、朝となく夜となく巡回し3ヶ町村合併を呼びかけた。
昭和29年2月21日、中川村長・議長が来訪し「矢掛町と合併内定した」との挨拶に接した。

小田町との合併は、せっかく合併しても規模弱小である。
昭和30年2月21日、村議会は12:4の多数決で昭和30年4月1日笠岡市へ編入合併することを決定した。
笠岡市との合併協定は成立し3月6日午前9時を期して同時に合併議決をすることになった。
僕は前夜合併派12人と役場の宿直室にジャコ寝し、一同円座して朝食をとっていると半鐘の音が聞こえる。
表に出ると煙は見えない。そこへ書記がせき込んで駆けつけてきた。
「町長さん!火事ではありません。
少合併派が役場へ押しかけてくる合図だそうです」と。
僕は宿直室の大合併派議員にこの事を告げ、矢掛警察署へ電話した。

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北川村合併騒動③笠岡市史

2015年11月26日 | 昭和31年~35年
笠岡市史によれば合併が遅れたのは北川村長の責任ともとれる記述になっている。

以下、
「笠岡市史第4巻」より転記する。


北川村は吉田・新山・中川・小田の5ヶ町村の合併を主唱し、関係町村と協議を重ねたが新山、吉田が昭和28年9月笠岡市との合併を議決10月合併した。
小田町は北川、中川の3ヶ町村の合併を唱えた。5ヶ町村の合併案が崩れた北川村も同調した。
中川村が昭和29年5月矢掛町となった。
昭和30年、大島村を合併した笠岡市は北は小田川という自然境界を市域とする大笠岡市気分が醸成された。昭和30年3月合併の議決がされた。

北川村は小田郡の中央部に位置する関係上、南の笠岡市へ合併を希望する村民と北の矢掛町へ希望する村民があった。
昭和30年2月、県の指導斡旋により大多数の村民は念願して村議会において議決するまで至ったが、なお賛否拮抗して村内は対立を続けていた。
昭和34年3月の村議会選挙後は特にこの期待は大きくなり、このときにあたり、円満合併ができるよう村長が退職し、村内の合併反対感情は大幅に緩和され、昭和35年に北川村を編入合併した。
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