笠岡市史によれば合併が遅れたのは北川村長の責任ともとれる記述になっている。
以下、
「笠岡市史第4巻」より転記する。
北川村は吉田・新山・中川・小田の5ヶ町村の合併を主唱し、関係町村と協議を重ねたが新山、吉田が昭和28年9月笠岡市との合併を議決10月合併した。
小田町は北川、中川の3ヶ町村の合併を唱えた。5ヶ町村の合併案が崩れた北川村も同調した。
中川村が昭和29年5月矢掛町となった。
昭和30年、大島村を合併した笠岡市は北は小田川という自然境界を市域とする大笠岡市気分が醸成された。昭和30年3月合併の議決がされた。
北川村は小田郡の中央部に位置する関係上、南の笠岡市へ合併を希望する村民と北の矢掛町へ希望する村民があった。
昭和30年2月、県の指導斡旋により大多数の村民は念願して村議会において議決するまで至ったが、なお賛否拮抗して村内は対立を続けていた。
昭和34年3月の村議会選挙後は特にこの期待は大きくなり、このときにあたり、円満合併ができるよう村長が退職し、村内の合併反対感情は大幅に緩和され、昭和35年に北川村を編入合併した。
以下、
「笠岡市史第4巻」より転記する。
北川村は吉田・新山・中川・小田の5ヶ町村の合併を主唱し、関係町村と協議を重ねたが新山、吉田が昭和28年9月笠岡市との合併を議決10月合併した。
小田町は北川、中川の3ヶ町村の合併を唱えた。5ヶ町村の合併案が崩れた北川村も同調した。
中川村が昭和29年5月矢掛町となった。
昭和30年、大島村を合併した笠岡市は北は小田川という自然境界を市域とする大笠岡市気分が醸成された。昭和30年3月合併の議決がされた。
北川村は小田郡の中央部に位置する関係上、南の笠岡市へ合併を希望する村民と北の矢掛町へ希望する村民があった。
昭和30年2月、県の指導斡旋により大多数の村民は念願して村議会において議決するまで至ったが、なお賛否拮抗して村内は対立を続けていた。
昭和34年3月の村議会選挙後は特にこの期待は大きくなり、このときにあたり、円満合併ができるよう村長が退職し、村内の合併反対感情は大幅に緩和され、昭和35年に北川村を編入合併した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます