しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

北川村合併騒動④-3 北川村長の手記(6)(7)(8)

2015年11月27日 | 昭和31年~35年
「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。



(6)

かくて村内は、議会リコール派と村長リコール派の対立、矢掛・笠岡合併の対立・混乱のドロ仕合と報道陣注目の的となった。
この時笠岡市の平本・安藤両市議によるあっせん妥協案が出された。
昭和33年9月15日、笠岡市高砂会館で「北川村長が退職すれば笠岡合併は確約できるか」念を押した。矢掛派6人は沈黙、3日間の考慮を約して散会、その後「村長が辞めても笠岡合併は賛同できない」と、かくて高砂会談は流産した。
その考慮期間中、矢掛派は「矢掛合併強硬議決」を申し合わせ、10月22日可決した。
僕は議員、リコール代表ら7人で天野県議案内で県庁を訪れ地方課長に「本日の村議会議決はリコール等村内情勢上、当分の間保留するので了承願いたい」旨申しいれた。地方課長は「妥当性に欠ける面も見受けられるが、合併保留についての承認はできない」と語った。
翌23日、矢掛町は緊急町議会を開き「昭和34年2月1日、北川村を編入合併する」満場一致で議決した。
この日、小田町は「北川村と同時に矢掛合併」を決議した。
矢掛派議員は小田・矢掛の町長・議長と出県、地方課長と質疑応答後声明を出した。「北川村の決議は適法である。村長は執行すべきである」。
これに対し笠岡合併同盟会は“北川村議員に問う”と題する長文を各戸に配った。
「議員諸君!すみやかに矢掛合併の取り消しを行え 然らずんば自ら総辞職されよ。敢えてリコールの結果を待たれる議員諸氏ではなかろう」と。

(7)

昭和33年10月29日、村選管は代筆署名の事実調査の結果、議会リコール署名簿は有効と再確認した。矢掛派はなお不服として弁護士を代理人にして岡山地裁に提起した。
「村議会解散を問う住民投票を12月21日行う」と告示した。
これを見た矢掛派は岡山地裁に議会解散賛否の投票一時停止を申請した。地裁は判定が済むまで投票停止すると返答した。
矢掛町は「矢掛町合併は必至・・」の新聞折り込みビラで村内矢掛派を援護射撃した。
僕は議員や同盟会長と14人で県会議長に「県議会で議決は保留してほしい」旨の請願書を天野・伊藤両県議の紹介で提出した。

リコール執行停止の仮処分にショックを受けた笠岡合併派は矢掛合併派のリコール運動を起こすことを決めた。12月19日、N氏宅を本部とし昼夜兼行の署名運動は29日、村選管に提出された。
こうなっては矢掛派もじっとしておられない。30日、「村内を乱した」と村長リコール運動にとりかかった。

(8)

昭和34年1月14日、矢掛派が村長の暴行2件を告発した。
村会議長ら矢掛派8人は「村議8人の解職署名簿は代筆・強要等があるから無効である」とまたまた異議を申し立てた。2月4日却下された。
村長解職運動は904人の署名を集めた。
1月31日、岡山地裁は先に執行を一時停止していたが有効であることを確認した。
1月31日、選管は村議会解散の住民投票を昭和34年2月20日とする告示をした。
2月20日、投票結果、村議会解散を決定した。

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北川村合併騒動④-2 北川村長の手記(3)(4)(5)

2015年11月27日 | 昭和31年~35年

「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。

(3)

昭和30年3月6日の朝、笠岡市合併反対(少合併)派が北川役場に押しかけてきた。
2人でさしあった半鐘を先頭に、ムシロ旗数本を押し立てた5、60人の一隊である。
一隊は「大合併を葬れ!」「議会をつぶせ!」となだれを打って乱入した。
半鐘は僕の頭上に持ち込まれた。頭上30cm、危険千万。
連打はやむことを知らない。ムシロ旗を議員団の頭上にかぶせる。陣頭指揮をとっているのは74才の長老。窓ガラスは割れ議長や議員の手から血が流れ出した。
「村長村を売ってええことするのか」「この騒動は誰の責任か」「村長、返答せよ」など半鐘乱打、悪口雑言の限りをつくした。
警察が来て急に静かになった。酒や杓が置いてあった。
急を聞いた民衆で外庭も人出を築いている。
10時頃、小田町の議長が「小田町への了解なしに笠岡へ合併するとは情義に反するではないか」、僕は「そのことは話している」と断った。窓からは酔っぱらった人が乗り込み、僕の机に座り演説をぶった。
途中、北川村の編入合併を満場一致で可決した知らせがあった。反対派との妥協案をつくろうとしたがまとまらない。小田町長はじめ帰らず少合併派に入れ知恵している。外では大火を囲んだ人の山。深夜の2時、貧血で倒れる議員が出て議会は流会を決めた。
これが3.6事変、いわゆるムシロ旗・半鐘事件である。
検事が井笠軽鉄の一番でやってきて「現場に手をつけないでください」。

(4)

それから2週間を経過した昭和30年3月20日、「合併問題を三木知事に一任」することになった。
4月30日、任期満了による村議選があった。
その結果少合併派が伸びて大合併派7人、少合併派7人、中立2人で両派五分五分になった。
この村議会に対して倉敷地方事務所の次長は「県は一任を受けているのであるが自主的に解決してほしい」と要望した。この言は中立2人の争奪戦に拍車をかけることになった。
翌昭和31年8月7日、4者会談が県地方課長のあっせんによって開かれた。
県・笠岡市・北川村・小田町が笠岡市役所に召集され村長・議長・副議長が出席した。
小田町の町長・議長が「いちおう小田・北川の合併を行ったうえ、笠岡市へ合併する」と主張。
僕は「小田・北川は同時に笠岡へ合併」と主張。
笠岡市は「同時合併の場合、北川は受け入れる。小田は意向があれば善処する」
地方課長は「同時合併が好ましいが、二段合併が不可とは言わない」
僕は小田町の誠意を疑った、4者会談は結局不調に終わった。
翌9月2日、村民大会が開催され村内の対立は激しさを増すばかりであった。
その10日後、任期満了による村長選があった。
僕は笠岡合併期成同盟会の推薦で、笠岡合併を一枚看板にして立候補した。
1.050:857票で僕の再当選と決まった。
昭和32年2月8日、県地方課長から呼び出しがあり「小田町と北川村の合併では、規模弱小であるから断念し、笠岡市または矢掛町との合併を推進するように」と。
同年3月31日、県地方課主事が来村し県知事からの合併勧告書が手交された。
待望していたものだった。ところが開いて唖然「北川村は矢掛町と合併を行うよう」と記されているではないか。
翌4月1日、緊急村会議を招集し勧告書を朗読した。
次の日、
村長・議員ら15人が北川駅に集合、
村民240人が貸し切りバス、矢掛町合併勧告拒否の陳情に行く。紹介者は伊藤・天野県議。

笠岡市議会は「実情を無視した不当措置である」と岡山県市議長会に決議案提出し県知事の勧告を抗議してくれた。
いっぽう村内の小田合併派は、あっさりと矢掛合併に横滑りした。
その間、中立議員の2名は笠岡・矢掛となり村議会は8名8名の五角となった。
5月5日議会全員が「村長の自発的退陣を勧告する」という意向でK議員から報告された。僕は「自発的退陣はしない、不信任なら善処する」と答えた。
村長退陣できなかった責任をとってK議員が辞職し、笠岡派7人となり均衡が破れた。

(5)
知事の勧告、議員団の劣勢で、じっとしておれなくなった。
二つの具体案を得た。
一つは自治庁への陳情。
一つは村議会解散である。
伊藤県議の案内で自治省を訪ねたのは昭和33年7月19日であった。二度目の陳情であり
村内の関係住民の多数の意向に反し、県当局が矢掛町合併勧告を出したことを説明した。
局長・課長は、勧告は命令ではなく盲従すべきでない。
村議会は険悪な空気のうちに進み「笠岡市または矢掛町との合併を内定し、昭和32年10月1日に合併する」と決めた。
笠岡合併同盟は8月26日から、夜に日をついでの議会リコール運動をすすめた。
矢掛派は「合併勧告あるのみ」の声明書を新聞折り込みで村内各戸に配った。更に矢掛派議員のみでリコール成立以前に合法議決をすることが密約された。
これに対抗し9月1日、議員・リコール派・婦人会ら90人が県庁におしかけ総務部長・地方課長と対談した。その結果を新聞折り込みで公表し矢掛派の声明を反撃した。
9月8日、村議会リコールの署名簿が出された。署名人1.049人で法定の1/3をオーバーした過半数である。
この議会リコールに対し矢掛派は村長リコールを打ち出した。「県知事から指示された矢掛町との勧告を無視し、いたずらに合併を紛糾させた」というもの。
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児童の生命

2015年11月27日 | 昭和20年(終戦まで)
学校で事故や事件が発生した場合、
教員が真っ先に行動するのは“児童の安全確保”であるが、・・・・・ある時代にはそれよりもっと大切なものがあった。

福山・岡山はじめ空襲は夜が多かったが、もし日中の授業中に遭遇していたら
校長先生は児童や教員を投げ捨てて一人、奉安殿に向かったのだろうか?(後述を素直に読めば、どうもそのようだ)


以下、
「笠岡市史3巻」より転記する。

皇国民の育成を目的をする国民学校では、御真影や教育勅語を保管する奉安殿が鉄筋コンクリートなど燃えにくい構造でできていた。
昭和20年6月、笠岡町女子国民学校の訓導であった女子教員の回想を記述しておく。

「ある日の深夜、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。急いで学校にかけつけてみると、校長先生がいつでも御真影を袋に入れて持ち出せるように待機しているのを見て御真影や勅語の大切さ、身をもって守ろうとする校長先生の姿に胸のつぶれるような思いがいたしました」

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笠岡紡績の設立・発展

2015年11月27日 | 江戸~明治
以下、「笠岡市史・3巻」より転記する。

殖産興業の中心となったのが綿糸紡績工場の育成である。
幕末・維新期に綿作の展開をみていた県南の地には岡山紡績会社をはじめ、次つぎに工場が設立され、明治29年にはその数9社に達した。

笠岡紡績は明治28年にドブソン製紡績機9984錘、従業員700名をもって開業した。
発起人は18人、株主は204人。後月郡・小田郡・浅口郡・岡山市。(持ち分は岡山市が41%)


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