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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

北川村合併騒動②小田町の事情

2015年11月24日 | 昭和31年~35年
北川村の騒動は小田町と共同歩調をとることの問題でもあった。
小田町が7年遅れて矢掛町へ合併したいきさつは、載っていない。


以下、
「矢掛町史」より転記する。

小田後月地方事務所の指導により北部の矢掛・美川・小田・川面・中川・山田・北川の8ヶ町村の合併構造をもとに最初の協議会が開催されたのは昭和28年9月1日であった。
次いで9月9日小田町が欠席した7ヶ町村で協議会をおこない昭和29年度初めに合併の目標で意見が一致した。
その後、小田・北川から独自の構想があるから賛成できない旨通知があり、6ヶ町村で合併することになった。
以来5回にわたり交渉委員会が開かれ29年5月1日をもって合併する運びとなった。
阿部山は地区全員が希望して鴨方町に編入した。
小田町は36年1月15日新矢掛町に編入合併し現在の矢掛町が誕生したのである。


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すたれた産業あれこれ

2015年11月24日 | 暮らし
「井原市史」より転記

出部うどん

上出部の農家で、稲の裏作で小麦作付し、納屋で石臼製粉し、農閑期にうどん打ち乾燥、かついで売さばく。
当時の裏作は裸麦か大麦であることは必然で、これを小麦に変えたのは大きな変革であった。
もっとも栄えたのは明治から大正で、このあたりに小倉織が盛行をみるようになり、家々に家内工業として撚糸がとりいれられうどんはばったりとあとをたったのである。


和紙

各地で行われていたが、この地方では七日市が中心であった。楮の木の皮をはいで使用したことは今も変わらない。
楮は耕地に栽培したものでなく、畑や水田のあぜ、河原の堤、山すそなどいたるところに植えられていた。
落葉した頃刈取って、農閑頃にそれを集荷した物が、七日市宿場裏の小田川沿いで処理され、同時にここで紙にすかれた。大正ころまで細々ながら続いていた。今は楮の株が点々と残っている。

刀鍛冶

井原市では西江原・荏原・木之子・県主などが砂鉄の産地とあげられる。
刀鍛冶として最後の伝統を守りつづけてきた女国重がいる。
本名は源、姓は大月で15代目。
文化5年に76才で死ぬまで精進したといわれるが、(世は太平で)多くは鎌とか包丁打が仕事であったであろう。


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芳井町から梵鐘はなくなった

2015年11月24日 | 昭和16年~19年
金属回収令では、銅像や梵鐘が記録写真でよく見るが
芳井町では梵鐘がひとつ残らず供出された。
他市町村の鐘はどうだったんだろう?
そしていまある鐘は、すべて戦後に造られたものだろうか。

以下、
芳井町史より

昭和17年11月1日正午、その二日前までに町役場倉庫に供出された。
直島で精錬される予定で、代金は町村あてになっていた。この供出で町内寺院のすべての梵鐘が供出された。


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「勝ち抜くわれら少国民」

2015年11月24日 | 昭和16年~19年
サトウハチローは戦前戦後、詩人として名高いが、キツイ歌を世に出している。
疎開児童に歌われたそうだが、学校でも歌われることがあったのだろうか。


以下
--昭和の戦時歌謡物語・塩沢実信著 展望社—
より転記する。


童謡づくりを常に胸に秘めていたサトウハチローの「勝ち抜くわれら少国民」
は死を美化した軍国主義迎合そのもの、ものすごい歌詞だった。

一、勝ち抜く僕ら少国民 天皇陛下の御ために
死ねと教えた父母の 赤い血潮を受け継いで 
心に決死の白襷 かけて勇んで突撃だ

二、必勝祈願の朝参り 八幡様の神前で
木刀ふって真剣に 敵を百万斬り斃す
ちからをつけてみせますと 今朝も祈りをこめてきた

三、僕らの身体に込めてある 弾は肉弾大和魂
不沈を誇る敵艦も 一発必中体当たり
見事轟沈させてみる 飛行機ぐらいは何のその

以下略

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戦時の歌は、

2015年11月24日 | 昭和16年~19年
歌も、小説も、新聞も、手紙も、そして会話も状況は似たようなものであったと思える。


以下
--昭和の戦時歌謡物語・塩沢実信著 展望社--
より転記する。


「麦と兵隊」の著者・火野葦平は戦後「当時、ペンに加えられていた制限は大きいものであった。」
火野葦平の言葉は、兵士や国民の士気を鼓舞することを目的とした軍歌・戦時歌謡にそのままあてはまるとみられる。

第一、日本軍が負けているところは書いてはならぬ。皇軍は忠勇義烈、勇敢無比であって、けっして負けたり退却しないのである。
次に、戦争の暗黒面を書いてはならない。強盗、強姦、掠奪、放火、傷害、その他。
第三に、戦っている敵は憎々しくいやらしく書かねばならぬ。味方はすべて立派で敵はすべて鬼畜でなければならない。
第四に、作戦の全貌を書くことを許さない。兵隊の狭い身辺の動きは書けても、作戦全貌は機密に属している。
第五に、部隊の編成と部隊名を書かせない。軍、師団、旅団、連隊、大隊、中隊、小隊、分隊となっているわけだが、全部部隊として表現しなければならない。
第六に、軍人の人間としての表現を許さない。分隊長以下はいくらか性格描写ができるが、小隊長以上は全部、人格高潔、沈着勇敢に書かねばならない。
第七に、女のことを書かせない。皇軍は女を見ても胸をドキドキさせてはいけないのである。
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