哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

宇宙から国境が見える?!

2005-11-29 22:26:25 | 科学
 朝日新聞連載の今日の「ニッポン人・脈・記」は宇宙の話になりました。宇宙飛行士の向井千秋さんの話です。

「宇宙から国境が見えることも新鮮な驚きだった。アマゾン川流域では、開発の有無で国境がわかる。道路が暗いのがドイツで明るいのがベルギーだと、同僚のベルギー人飛行士が教えてくれた。」

 えっ?宇宙から地球を見ると国境は見えないと思い込んでいました。宇宙から見れば地球に国境はないはずだから、宇宙からの視点は、戦争の愚かさを示す一つの証明のようなものだと思っていましたので、本当に「新鮮な」驚きです。

 そういえば、夜間に飛行機から東京の街を見ると大変きらびやかですが、かつてイタリアの夜間の有名都市を空から見るとぼんやりとした明るさだったことを思い出しました。

 意図せずしてかわかりませんが、人類は昼も夜も国境を目に見えるようにしてきているのですね。唯脳論の養老さんが摩天楼を脳化現象だと言うように、観念である国境も視覚化していっているわけです。これは人類の進歩というよりは、危うさの証左なんでしょうね、きっと。

脳には何にもわからない(週刊新潮連載今週号の「人間自身」

2005-11-27 17:37:30 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「脳には何にもわからない」という題でした。前回の続編でもあります。主なところを要約しつつ抜粋します。

「自分とは何か、世界とは何か、これ以上どうも考えられないときに、人は「脳」と言う。「脳が」そうなっている、とか、やがて脳の全容が解明されればそれは明らかになるだろう、とか。言わばそれは、自ら考えることを放棄して、わからないことを放り込んでおける便利なバケツみたいなものである。だから「脳」は「遺伝子」と並び、科学時代の神であると私は言うのだ。
 「脳」ということにして論を進めるのは、物質としての脳から非物質の意識が「生じた」などと言えるはずがないからである。意識とは、そこにおいて認識の一切が成立している、世界そのものである。脳についての認識すら、意識において成立しているのだから、脳なのか意識なのかは、ニワトリとタマゴである。」

 物質たる脳と精神たる意識の相違ですが、どうしても脳の科学的解明によって人とは何かが説明できる、と思ってしまうのが「バカの壁」だ、と池田さんは言っています。

 そして認識の一切が成立する意識と言っていますが、脳があるから意識があるのか、意識があるから脳であるのか、つまりニワトリが先かタマゴが先かなんですね。いずれにせよ、意識一つで完結しているではないか、そしてそれが世界そのものだと。この辺の話はどうしても我々凡人の理解を超越してしまいます。「バカの壁」でしょうか。

 今回の文の中にある言葉「バカの壁を突破するには知恵の槍をもってせよ」ですが、この槍は日本には1本しかないのかも知れません。

無伴奏チェロ組曲

2005-11-25 23:48:01 | 音楽
Excite エキサイト: 無伴奏チェロ組曲


バッハの曲の中でも無伴奏チェロ組曲のファンの方は多いようです。しかもこの曲は「チェロ」用の曲なのに、いろんな楽器で演奏される珍しい曲です。

 ビオラやコントラバスもあれば、ギターもあります。上にリンクしたのはなんとフルートによるものです。他にもホルンやサクソフォンもあります。もっと他にもあるかも知れません。

 無伴奏チェロ組曲は、曲調もいろいろあって、本当に楽しめる曲だと思います。舞曲らしい曲もあれば、祈りのような音楽もありますし、なんといっても無伴奏であることがシンプルでストレスなく聞かせてくれます。
 楽器による音や響きの違いも併せれば、2倍の楽しみがあります。

 同じ無伴奏でもヴァイオリンパルティータとソナタの方は難曲らしく、あまりいろんな楽器で演奏されることはないようですが、それでも有名なシャコンヌはピアノやギター版があったりします。
 こちらも結構お薦めですね。

池田晶子さんの「ズバリ言うわよ!」④今ここにある死

2005-11-23 04:57:04 | 哲学
 養老孟司さんの話で、翌年の講演スケジュールの打合せの際「生きていればやりましょう。」と言うと、たいていの担当者が笑うそうで、「ああ、この人は来年も確実に生きていると思っているんだなあ。」と苦笑したという話がありました。

 このあたりの死に関する話は、池田さんの言葉とかなり共鳴します。池田さんの『残酷人生論』の冒頭の「死はどこにあるのか」から、少し要約しつつ抜粋します。

「人生の意味と人は言うが、人生が一度限りであるということを前提にその意味を求めようとするならば、生における死の位置を明確にすることなしには、それは不可能だ。
 ならば死はどこにあるのか。生を生たらしめているものは、生ではないものすなわち死である。瞬間瞬間の生を瞬間瞬間の生たらしめているのは、瞬間瞬間の死である。だから死は今のここにある。
 ところで「ここ」とはどこか。「ここ」と言うとき、そこはもうここではない。「ここ」なんてどこにもない。だから死はない。したがって生もない。
 これがたいていの人は、生は確かで、死はなんとなく先のことと思っている。」(『残酷人生論』P.13~15)

 今ここにある死と題名をつけましたが、池田さんの文では、「死はない、したがって生もない。」という話になっています。要するに、生も死も人はわからない、わからないのにわかったように人生の意味を問うことができるのか、と言っているのだと思います。決して人生の意味を問うことを無駄と決めつけているわけではありません。
 どうせいつ死ぬしかわからないのだから好き勝手に生きよう、と人が思うとすれば、池田さんはそれこそ、勝手にすればよい、と言うでしょうが、その真意は、死ぬことすなわち生きることを知らないで意味を求めたり意味を放棄することをおかしい、と言っているのだと思います。

池田晶子さんの「靖国問題に思う」

2005-11-21 21:35:42 | 哲学
PR誌・トランスビュー no.10

 池田晶子さんの活動はトランスビュー社のサイトでフォローできます。読書会なんていうのもあるようですが、こういう集団志向は池田さんの思考と合わないようにも思いますけど。
 そのトランスビュー社に池田さんが寄稿された文として、表題の文が掲載されていましたので、リンクしてみました。

 「英霊、 慰霊と言うからには、 霊魂の存在を認めていることになる。」という話から始まっています。出だしはどうも、首相をはじめ靖国参拝者を斬っているようです。でもその後に「もっと破綻しているのは、 英霊の戦争責任を追及する共産中国である。」と続きます。中国をもこのように斬る発言は他であまりみませんね。

 もしいわゆるタカ派の方々がこの中国のくだり以降を読むと、自分たちの立場を哲学者も支持している!と勘違いすることでしょう。かつて池田さんがいろいろな雑誌の連載を転々とされたのも、そんな勘違いの経緯もあったのではないかと推測します。
 もちろん池田さんは一定の立場から発言されたわけではないですから、そのうち支持されたと思っていた方々の言動も斬られていきます。そういう意味では池田さんの言葉は両刃の剣といえます。

 池田さんがもっとも波長が合うとする小林秀雄さんが、徒然草に関して書いている文章に「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、という」という話が紹介されています。小林秀雄さんの文は、もしかしたら少し鈍き刀を使ったといえるものだったかもしれません。凡人には理解不能な文でも信奉者は多いですから。

 しかし池田さんの文は、明らかに切れすぎる「鋭い刀」でしょう。あらゆるものをばっさり斬りおとす透徹な刀です。安易に近づくと危険かもしれません。

脳は何でも知っている(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2005-11-19 22:50:20 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「脳は何でも知っている」という題でした。主なところを少し抜粋します。

 「私は、主語を「脳」として語られる言説のほとんどを信用していない。「私は脳」もしくは「私の脳」と人の言う、それは当の科学によれば、主観なのか客観なのか。
 当たり前のことだが、世界とは、私によって見られている世界である。それを見る私が存在するから、世界は存在するのである。私が存在しなければ、世界は存在しないのだから、私とは世界なのである。主観すなわち客観なのである。ここに脳の出番はない。
 脳内の客観的物理的過程が、どうやって主観的意識経験を生み出すのかと、科学者はもう長いこと悩んでいる。しかし、「客観的に説明すれば」、これこれの物理的過程であり、「主観的に経験すれば」、これこれの意識経験である。同一の事象をどちらの側から見るかという違いであって、そこに因果関係はないのである。」


 科学をどうしても信奉してしまうわれわれ庶民には、ものが「物理的」に存在する方がわかりやすく、「私」という存在も、脳として存在していると説明された方が確かにわかった気になります。世界は私だ、と言われても、なかなかわかった気にならないのが正直なところです。

 以前に立花隆さんが科学最前線でレポートしていたように、人間の意識そのものが脳内の電気信号にもし還元されるとすれば、ロボットにも心が宿る可能性がある、とわれわれは短絡してしまうわけですね。
 しかし、やはり池田晶子さんの言う通り、物質で精神は説明できません。例えば、脳内モルヒネが幸福感をもたらすとしても、幸福感そのものについて何の説明にもなっていないと言われれば、確かにそうです。

 何でも「物質」に還元して考えてしまうことから考え直さないといけませんね。

中坊公平さんのシュウマイ弁当

2005-11-18 03:13:10 | 
 中坊公平さんは、一時期首相待望論まで出るくらい人気はありましたが、住専時代の違法な回収の責任をとって、弁護士資格を返却されたと聞いてます。かつて中坊さんを絶賛されていた佐高信さんも批判文を書かれているので、ちょっと残念です。

 しかし、日本経済のバブルの後始末を牽引された功績は、それでも評価してもいいのでは?とは思います。これも歴史が評価する問題としか、いまや言えないのでしょうか。

 中坊公平さんの『金ではなく鉄として』の本の中で、カール・ブッセという人の詩「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ。ああ、われひとととめゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く幸住むと人のいふ。」の紹介とともに、東京駅で買う駅弁は必ずシュウマイ弁当だとの話が載っています。
 安いシュウマイ弁当でも結構おいしく、身近に幸せがある、ことの例として言っておられるようです。
 先日東京へ日帰りで行ってきましたが、中坊さんにあやかって、東京で買う駅弁はついついシュウマイ弁当を買ってしまいます。正直言って味は普通ですが。

 ところで、中坊公平さんの『金ではなく鉄として』は、住専以前の主な事件や生い立ちを書いたものですが、新幹線建設によるマーケット立ち退き問題の話は、結構物語としておもしろく感動的です。とくに零細店主らのリーダーの私利私欲のない態度は、中坊さんがこの本の中で言っているように、政治家こそ見習うべきだと本当に思いました。

池田晶子さんの「ズバリ言うわよ!」③生活=存在

2005-11-16 02:28:09 | 哲学
『考える日々Ⅲ』の「ところで、生活はどうするのですか」から、要約しつつ抜粋してみます。

「一般の人々を相手の小さな勉強会で「哲学とは何か」を話してほしい、と乞われることがある。考えることがこういうことであるということなら話せますとして、出かけて行って、いつものように話す。死ぬとは何かをわれわれは知らないのだから、生きるとは何かということも実は知らないのである。知らないにもかかわらず、なぜわれわれはそれを知っているかのように生きているのか。生きるとは一体どういうことなのか、それを考えることを「考える」と言い、「哲学」と言ってもかまわない。
 皆さん、ほーほー、はーはー、と熱心に聞いてくださる。なるほど、わかりました。生きるとはどういうことなのかを考えることが哲学なのですね。ところで、生活はどうするのですか。
 この種の質問をいただく時のトホホな感じ、脱力徒労感というか、きっと泣き笑いのような顔をしているに違いない。
 だからその、「生活」すなわち「生存」すなわち「存在」とは何か、を考えることが、それを考えることだと言っているのですよ。
 私は懸命の説得を試みるのだが、じゃあ先生はどうやって生活なさってきたんですか、といった質問に至っては万歳、全面降伏である。なんで生活がそんなに大切なのか!
 なるほど、生活は生活で誰もが大変なことである。しかし、生活が大変なのは、必ずしも社会のせいではない。それは自分が生存しているからである。したがって、生存すなわち存在とは何か。
 こういう筋道によって、考えることは開けてゆくのである。生活するために考えるのではない。生活するとはどういうことかと考えるのだ。この世に生活するほとんどの人が、哲学教授も含め、ここのところ見事に転倒している。転倒したまま、その生活人生を終えている。」(『考える日々Ⅲ』P.162~164)

 死ぬとは何かをわれわれは知らない、と最初の方にあるのは、死体は見たことがあっても、死そのものを見た人も経験した人もいないのだから、誰も死ぬということを知らない、ということを言っています。ソクラテスも同じ事を言っているそうです。
 そういえば、ソクラテスの「人は食べるために生きるが、私は生きるために食べる」との言い方を言い換えれば、池田晶子さんの今回のような文章になるのかも知れません。

池田晶子さんの「ズバリ言うわよ!」②国家の観念

2005-11-14 05:40:25 | 哲学
 『残酷人生論』の「アイデンティティーという錯覚」と題した文から、要約しつつ抜粋します。

「人はとくに考えずに、私は日本人である、と言う。しかし、それはたまたまそこに生まれたというだけであって、「私」という精神はどこにも属さない。日本人である、と自分から思っているから、帰属意識を持ち、国家が存在する。思わなければ国家は存在しない。
 ~戦争という現実的な出来事においても、そんな観念的なことを言っていられますか。~
 むろん言えます。戦争という最も観念的な出来事においてこそ、かくまで現実的なことを言う意味がある。人が、国家を「存在する」と言い、そこに属すると「思う」、この思いこそが国家を存在さえ、存在もしない国家を守るために闘おうという驚くべき本末転倒になる。だから人は思わなければいいのである。人がそうと思わなければ、戦争は起こるはずが無い。だって何者でもない同士、いかなる理由があって殺し合うのですか。」(『残酷人生論』P.64~67)

 前半部分の「私」については、生物的にどうであれ、「私」という精神は何者でもない(人生が何事でもない、と同じですね)ということです。確かにウェブ上でペンネームを持つと、なんとなく別人格になった気分になったりしますが、まさにアイデンティティそのものが「思い込み」なのでしょう。

 そして後半部分の、「戦争という現実的な出来事」が全くひっくり返って「戦争という観念的な出来事」に置き換えられてしまう倒置には、驚きました。確かに国家というものが観念にすぎない(確かに物理的に国家が存在しているわけではない)となれば、戦争も観念でしかないとの言説は、全くもってその通りではないですか。これは国家を民族に置き換えても同じです。

 一度、私たちが普通に持っている「観念」の棚卸しをした方がいいんでしょうね。人類規模でそれができるなら世界は変わるんでしょうけど。

塩野七生さんの「知ることと考えること」

2005-11-12 21:52:57 | 
 今月発売の文藝春秋の塩野七生さんの連載記事は「知ることと考えること」でした。
 言いたいことは要するに、情報を多く集めて「知る」ことは出来ても、「考える」ことをしなければ、ものにはならない、ということでした。

 しかも、塩野さん自身はパソコンも使えないアナログ人間であると書いてありましたが、それならまるで池田晶子さんと同じです。今回は塩野さんの代わりに池田さんが書いたのかと思ったほど文章内容に類似性がありました。

 最後の一文には、(コンピューターとかで)情報を収集する時間を削って、考える時間を増やしてはどうか、と書いてありました。

 しかし、考える時間を作っても、何をどう考えるのかが問題ですよね、本当は。