哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

塩野七生さんの「日本人へ」48

2007-04-29 07:54:00 | 時事
 文藝春秋5月号の、塩野七生さんの「日本人へ」48は「戦争の本質」という題でした。一部要約して抜粋してみます。


「戦争とは、良い悪いの区別がないだけでなく、防衛のための戦争か侵略のための戦争かの区別さえもむずかしい。いや、戦争は、ほとんどとしてよいくらいに侵略戦争である。なぜなら、防衛のつもりで行った戦争に勝ったとたんに、防衛線を確実なものにしたくなって侵略することになるからである。

 ・・たとえ戦争に正義がウンヌンされるようになっても、戦争そのものが姿を消したわけではない。それはおそらく、頭をガツンとやられないかぎりは言うことをきかない、国家や民族や部族が後を断たないからだろう。昔も今も、人間性のこの現実は変わらないのではないかと思っている。」



 最初の一文「戦争に良い悪いの区別はない」に、まずは考えさせられます。

 本当に、戦争に良い悪いの区別はないのでしょうか。戦争は勝者にとっては良いが、敗者にとっては悪いという相対的な意味であれば、それは本当の良い悪いではありませんよね。また少なくとも侵略戦争であれば、他人の土地や財産を略奪する意味がありますから、悪いことと考えやすいのですが、そもそも侵略戦争か防衛戦争か区別がつかないのであれば、やはり良い悪いの区別がつきません。

 ただ良い悪いは別として、歴史上人類は戦争を止めるということはこれまではなかったし、これからも止めない気がします。塩野さんの言う通り、人間はいつの時代も変わらないと、歴史を見ればそうとしかいえないということですね。

 そうは言っても私たちは、人間同士がなぜ戦争をするのか、考えます。池田さんの謂いなら、お互い何者でもない者がなぜ殺しあわなくてはならないのか、ということですよね。


 ところで、本号の巻末のガイカンロクというところに、池田晶子さんの訃報記事が載っていました。それによると、池田さんは慶応大学卒業後、モデルクラブでブラブラしていたということで、「モデル出身の女性哲学者」で売り出そうとした出版元もあったそうです。今で言えば、エビちゃんとかモエちゃんとかが「存在とは何か」と言い出すようなものでしょうか。全く想像がつきませんが。

「プロ」といえる人(『人間自身 考えることに終わりなく』)

2007-04-22 07:09:40 | 哲学
 池田晶子さんの最新刊(4月20日発行)『人間自身 考えることに終わりなく』には、週刊新潮の連載以外の文章も掲載されていました。ランティエという雑誌に掲載されたという、表題の文章を今回は取り上げて、少し抜粋してみます。



「世間の多くは、自分はそれで食っているのだ、食ってゆくのだという覚悟、これを所有している者が、プロフェッショナルな者なのだと、自他ともに称賛している。
 しかし、「それで食う」ということにプロの覚悟があるのであれば、もしそれで食えなくなれば、その覚悟はどうなるのか。

 「食う」ということと、「覚悟」ということは、じつは完全に無関係なのである。いや逆に、食うことを無関係とするところにこそ、本来の覚悟はあるのである。食える食えない関係ない、生きるか死ぬか知ったことか。自分はどうしてもこれがしたい、これしかできない、だからこれをするのだ。
 このような構えをこそ正当に「覚悟」と、私は呼んでいる。」



 この文章を読んでいると、別の文章との共通点に気付きます。同じ本のすぐ直前の「天才とはどういう人か」で、天才の定義として、「それしかできない」という点を挙げておられます。つまり、天才もプロも、「自分にはこれしかできない」という点では共通するわけです。

 では天才とプロとはどこが違うかというと、それは単に先天的な才能を持つか、後天的に能力を磨いて精進しているか、だけなのでしょう。その仕事について、生死に関係なく覚悟を有する者がプロであり、それに加えて天賦の才能を持つ者が天才といえるのですね。


 池田晶子さんは「天才」ですから、天賦の才能により、生きている限りロゴスを発信されていました。我々も池田さんのロゴスに共鳴することはできるのですから、あとは「自らこれしかできない」という覚悟を有する仕事をするか否か、自ら内面を問うしかありません。

『多神教と一神教』(岩波新書)

2007-04-15 00:06:50 | 
 以前紹介した松岡正剛さんの本(『17歳のための世界と日本の見方』)のなかで、一神教と多神教の違いが生まれた背景として、前者は砂漠の思想、後者は森林の思想、という説明ができると書かれています。この説明は端的でわかりやすそうですが、安易に感じられなくもありません。


 そこで、今回は多神教と一神教の生まれた過程について考察した本を紹介します。古代人の「心性」を捉えようとする非常に面白い本です。ソクラテスが精神・魂の重要性を説いたことにも触れられており、池田晶子ファンにもお薦めの内容です。


 さて、この本で一神教の生まれた歴史的な要因をどう考えているか、ですが、いろいろな要因を挙げている中で一番関連性が深いと思われるのは、アルファベットの発明と民族の抑圧だそうです。

 既にメソポタミア文明で楔形文字が作られていますが、文字の種類が多くて少数の者しか扱えなかったものが、時代を下り少数のアルファベットによる文字の利用が広がっていったそうです。文字を利用できる人が増えることにより、言葉が聞くもの中心から読むもの中心に変わり、それによりいろんな概念というものが整理されます。それと同時に、宗教的心性も変わっていったというのです。つまり種々の神がだんだんと統合され、一つの神への信仰に変わっていったのです。このように、少数のアルファベットの使われはじめた時期と、ユダヤ教の発生とが軌を一にするのだそうです。まさに「はじめに言葉ありき」です。


 一方で、エジプトで抑圧されたユダヤ民族が、抑圧に対する救済を望んだことが、多神から一神を崇拝するようになったきっかけだそうです。


 
 ところで、ソクラテスが話し言葉を重視した理由について、この本では、書き言葉になることによって失われてしまう「心性」が話し言葉にはあったからではないか、と推測しています。
 確かに、池田晶子さんの「言葉は命」というときも、何となくイメージは話し言葉であるように思います。

イエス・キリスト

2007-04-08 00:00:01 | 哲学
 前回、池田さんの文章でイエス・キリストについて触れられていると書きましたが、その該当部分を少し引用してみたいと思います。イエスと仏陀とソクラテスの会話は『帰ってきたソクラテス』にありますが、これだとイエスの話がわかりにくいので、今回取り上げるのは『ロゴスに訊け』の「汝に敵は存在しない」からです。アメリカのテロ事件とその報復行動、イスラム過激派の話から、以下の文章に流れています。


「・・彼(バチカンの法皇)は、汝の敵を愛せよ、と説いたのだろうか。右の頬を打たれたら左を差し出せ、と説くことはしなかったのだろうか。
 理性の言葉によって論駁することはできる。納得しようとしまいと、正しく語ることならばできるのである。本当に難しいのは、納得しようとしないその感情をも納得させるような正しさの言葉だろう。本来は宗教の言葉こそが、争いと憎しみのこの人類史において、そのような役割を果たしてきたのではなかろうか。
 人間的な感情の超越、イエス・キリストの超人性がそこにある。報復という感情に動いているのは、愛ではなく憎しみである。憎むのはやめなさい、自分のためにならない、高みから説くのは易しい。しかし、自分の身に起こったこと、愛する人の身に起こったこととして、その場で即座に敵を赦すことができるようになるまでに、人類は何万回滅びなければならないだろうか。
 ところで、イエス・キリストの言葉、その語り方にも、落ち度はあると言えばあるのである。敵は、「敵」と名付けられることによって敵となるという、言語上の事実である。名付け以前の「存在」とは、ある意味で「自分」なのだから、敵を「敵」と名付けることによって敵を作っているのは、他でもない自分なのである。」



 上の文章に続いて、池田さんは「汝の敵を愛せよ」の言い換えとして、「汝に敵は存在しない」「すべてが汝である」を挙げておられます。

 イエスの言葉に落ち度はあるとはいえ、池田さんはイエスに対して、感情を超越した超人性を捉え、そして「人間と世界の本質を考えて、言葉にして人々に語った者」としての好感を持っていることが伺われます。このような大宗教の創始者は、意外にも超人的な哲学者として捉えることができるようです。ただその後の大衆による信仰が、考えることよりも信じることを中心にすえてしまうことにより、宗教と哲学とが分かれていくのでしょうか。


 しかし、一般大衆に語りかける際に、理性と感性のどちらが訴えやすいかというと、やはり感性だということを、最新の文藝春秋臨時増刊号で塩野七生さんは言っておられます。為政者が真実の言葉で大衆の心を捉えるには、感性をもって行い、そして政治は理性で行うべきなのだそうです。

 そうすると、池田さんも上で書いておられる通り、理性で正しさを納得させるのが困難な以上、感性においても訴えることのできる言葉が人類には必要なのでしょうか。それがどうしても宗教になってしまうのか、それとも哲学の言葉がそれを担うことができるのか、については、後者を目指したのが池田晶子さんだと思いますが、その晩年は「自分だけ“善”ければよい」と、ややさじを投げた悲観的な言い方が多くなっていました。

 現代は宗教同士も不寛容な争いをしているように見えるこの世界で、宗教の言葉ではなく、哲学の言葉で何か力を及ぼすことができるでしょうか。

 いずれにせよ、引き続き池田さんの言葉をもとに考えていきたいと思います。

『17歳のための世界と日本の見方』

2007-04-01 08:52:50 | 知識人
 この本の題を新聞で見た時は、また池田さんの『14歳からの・・』の便乗かと思いましたが、今結構売れているそうです。

 著者の松岡正剛さんは、昔『遊』というアングラな雑誌を発行されていた方で、どうしてもアングラな博識者というイメージが私はぬぐえないのですが、今や編集工学の権威として表の活動をされています。


 この本の内容は、ある大学の講義録だそうで、大変読みやすいものです。一言で言えば、世界史と日本史のおもしろいところを編集しなおしたものといえるでしょうか。その中でも一番コアな内容は、ユダヤ教とキリスト教の話だと思います。世界のあり方に最も影響を与えた宗教だからでしょう。

 その他にも仏教や日本文化の話もあり、大変多岐にわたる内容ですが、物語として大変面白く読めます。


 池田晶子さんの本にもイエス・キリストや仏陀の言葉が時々出てきますが、その歴史的背景の整理に役立つ面白い本だと思いました。