哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

日めくり池田晶子 43

2011-07-29 01:44:55 | 哲学
 アメリカをはじめ世界各国の財政赤字、各地の大震災、いろいろ自分の周りに起きていることや、先行きの不透明感などから、今この時代に生きているということの不遇を思うことがあるかもしれない。しかし、単にそれらを運命だとして受身に思うのではなく、時代が変わろうとする大きなうねりの中に居るのだと思うこともある。そして、時代の移り変わりは決して他力ではなく、自ら変わることが時代が変わるということだと、池田さんは端的に述べている。




43 時代に即するとは、君が君の人生を、よそ見をせずに真面目に生きてゆくことでしかない


 時代を生きている君たちが、時代を変えることを望むのなら、まず自分の考えを変える以外ないじゃないか。それがたくさんの人に理解されて、時代の考えになり変わる以外に方法なんかないじゃないか。
 言論は自由なんかじゃない、厳しい必然だからだ。数式や文法がそうであるのと同じだね。それらが全ての人に理解されることができるのは、それが誰か個人の考えではないからだ。まあ、万古不易の真理だね。それでこれを言論(ロゴス)と言うのだ。(『帰ってきたソクラテス』「時代はどこにあるのか」より)

スポーツ観戦

2011-07-24 06:00:00 | 時事
 サッカーにしろ野球にしろ、試合の最初から最後まで観戦するということは今までまずなかったのだが、先日の女子W杯決勝戦は中継で最後まで見てしまった。これを国民的参加と言ってしまうと、以下で引用する池田晶子さんの謂いに斬られてしまうところだろう。しかし、スポーツという虚構は、人生や社会という虚構とも重なるから、一定のルールの中で競い合う時の精神力の発揮の仕方に、何か惹きつけられるものがあるのかも知れない。



「私はサッカーには関心がない。サッカーだけでなく、スポーツ観戦一般がそうである。自分がするならまだしも、他人がしているのを見て、我が事のように一喜一憂する心理が、うまく理解できない。
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以前から言っているが、私が日本人であるというのは、たまたまの属性にすぎない。私が私であるところの私そのものは何者でもない。私だけではない。すべての人が、本来はそうなのである。しかし人は気づかない。自分は日本人である、自分はその国の人間であると思い込んでいて、国が侮辱されると自分が侮辱されたと思って腹を立てるのである。
 サッカーも戦争も、この心理構造は同じである。虚構を現実と思い込んだ人間同士が、「自国の誇りを賭けて」争っているのである。現実の血が流れるよりはマシなだけで、スポーツは明らかに代理戦争である。代理戦争でガス抜きをする知恵とも言えるが、虚構を虚構と自覚しない限り、人間は賢くなってはいないのだ。」(『知ることより考えること』「サッカーはファッショである」より)



 この池田晶子さんの指摘は、オリンピックなどの国別対抗についての指摘だが、敵と味方に分かれるスポーツは全て同じことなのだろう。試合が終わったら「ノーサイド」という言い方をするスポーツがあるが、そういう精神こそがかろうじて池田晶子さんの謂いに沿う。


 ところで、実力に差があってもピンチになっても決して焦ることなく、自分のすべきことをしっかりと行う精神力は、もちろん技術力の裏づけも必要だが、スポーツにおいては、その勝負の結果を左右することもある。


 今回の女子W杯決勝戦を見た後、なぜか「江夏の21球」という古いスポーツドキュメントを見たくなってしまった。九回裏無死満塁という絶体絶命のピンチをどう切り抜けたか、そこで見られた選手や監督等の精神的な戦いの姿は、スポーツの違いを越えて、重なるものがあるのかもしれない。

日めくり池田晶子 42

2011-07-16 01:55:00 | 哲学
 今回は日めくり池田晶子1で引用した同じ文章内で、その後ろの方にある文である。考えるということは、決して慰めにつながることではない、ということを、冷酷に宣言している。「人は、自分の望むようにしか生きられない」という謂いも、確かに当たり前と言えばそうである。そして、池田晶子さんの本の帯にある「悩むな、考えよ」という謂いは、池田晶子さんを最も端的に表現していると思う。




42 考えるということは、残酷なことである


 ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない、ありもしない慰めで人を欺かない、人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほど、その意味では残酷なことである。むろん、残酷なる真実を知るよりも、甘たるい悩みに憩っていたい人は、そうすればよろし。人は、自分の望むようにしか生きられないというのも、これはこれでまた残酷な真実であろうからである。(『残酷人生論』「プロローグー疑え」より)

政治家の信念

2011-07-11 07:28:00 | 哲学
 菅首相については、以前に民主党代表を辞めた時期くらいに池田晶子さんも書いたことがあるので、紹介しておこう。菅首相がかつて、代表を辞任して「自分探し」のために四国遍路をした頃の話だ。確かこの時、いろいろスキャンダルやらあったように記憶している。菅氏は、奥さんから脇が甘いと叱られたと話題になったように思う。



「本物の政治家に必要なものと言えば、言うまでもなく、強い信念であろう。誰が何を言うのであれ、どのように世間に叩かれるのであれ、決して動じない信念であろう。その信念をもってやってきたことが、世間に通用しないという現実に至るのは、言わば政治家の宿命であって、そこで動じるようであっては、政治家として未熟であろう。

 たとえば政治家の場合では、その人の政治的信念や歴史観が常に問われているわけである。ある現実に直面した政治家は、本気でそれを自身に問う。如何に決断するべきか。如何に行動するべきか。この時、もしその人が本物ならば、その政治家信念や歴史観の前に、私的な判断や思惑など、当然どうでもいいことになる。「自分」なんてものはないはずである。これを正しく「無私」と言うのであって、この無私があるからこそ、政治家としてのその人は存在するのである。」
(『勝っても負けても』「政治家の自分探し」より)



 なんだか池田晶子さんの言葉も、今の菅首相を応援しているような内容に見える。もちろん池田さんは、政治家一般について正論を言っているにすぎないが。問題は、今の菅首相が抱いているはずの信念が何であるかだ。世間に何と言われようとも動じないのはよいが、それを後世においても崇高な信念であると評価できる内容であることを望むばかりである。

菅降ろし3

2011-07-10 00:41:14 | 時事
 先日の民放テレビでニュースキャスターが、首相も大臣も「辞める」と言っている政権は見たことがないから早く退陣すべきだ、というようなことを言っていた。


 見たことないから辞めるべき、という理屈にならない主張をよく言うものだと感心した。この発言に限らず、今メディアも政治家も、菅首相は退陣すべしと言っておけばとりあえず良かろう、という風潮が感じられる。みんなと同じことを言っておけば、失言にもならず安心なのだ。菅政権よりも財政や復興に手腕を確実に実施できる政権構想が、もう出来上がっているのだろうか。菅政権はすぐに辞めるべきという方々は、菅政権より速やかな対応が確実にできる代替案を示すべきだろう。それが誰が見ても良い案なら、菅首相だって譲るかもしれない。


 以前に塩野七生さんが書いていたように、菅政権の延命に資するからどうだと言っている場合ではなく、むしろいまやるべきことを、知恵を出しあって進めることしかないのではないか。ストレステストの話だって、より安全に資することなら、なぜ実施することに異論が出るのだろうか。急に政府がストレステストを持ち出したからとして、政治がぶれまくっているという主張がよく聞かれるが、必要なものがあれば方針変更を速やかに行うのも当然だ。むしろストレステストを取り上げなかったら、欧州で全て実施するとしているのに、日本でなぜ行わないのかという批判を絶対に野党やメディアが行っていたことだろう。


 それにしても菅首相の“しぶとさ”は、むしろ高評価をしてもいいかもしれない。あれだけのバッシングを受けながら、党内で孤立しつつありながらも自らの任務を信じて遂行しようとする強い意志は、他の多くの政治家では同じようにはできる人は少ないのではないか。これまで、首相の立場をすぐに投げ出した政治家が多かったのは周知の通りだ。小泉元首相だって、在任中はかなりバッシングを受けていたはずだが、側近の秘書官の強いサポートもあったとは思うが、乗り切って最後までやりきったのだ。菅首相は、国民の人気もないという状況では、ある意味小泉元首相以上の試練ともいえるが、やるべきことを最後までやりきる強い意志のもとに頑張っているとすれば、菅首相を応援する人がもっと現れてもいいと思う。

日めくり池田晶子 41

2011-07-09 00:03:00 | 哲学
 前に洋楽ポップスの歌詞を取り上げたが、池田晶子さんも、邦楽についてであろうが、ポップスの歌詞について話題にしたことがある。池田晶子さんらしい謂いなのだが、少し過激な内容ではある。




41 「生きるか死ぬか今覚悟決めなって」「そうでなければ自分何をやったって同じだって」


(はやりのポップスの)最近の傾向は、「癒し系」から「励まし系」へ移ってきているのだそうだ。「癒されたい」とか「励まされたい」とか、他力の構えでいる人は、その同じ理由によって、相変わらず落込んだり、あきらめたりを繰返すわけである。したがって、もし私なら、いっそこんなふうに歌ってみたい。

 しかし、これではさしずめ「脅し系」であろうか。けれども、歌われていることは、あからさまなほどの真実である。またじじつ、こういった脅しの文句がズラリと並ぶ池田の本によって、「励まされた」という人は少なくない。遅かれ早かれ人は一度死なないことには生きられないのだから、やっぱりすべてはその人の覚悟にかかっているのである。(『ロゴスに訊け』「生活すること、存在すること」より)

菅降ろし2

2011-07-04 02:03:04 | 時事
 ある新聞報道によると、小沢一郎氏は、菅首相が辞任する時期をなかなか決めないことについて、「なかなかしぶといな」とつぶやいたそうである。この発言には、思わず笑ってしまった。

 もし自民党政権であれば、何の未練もなく(?)辞任していたのかもしれないが、現在の政治のこの光景はなかなか見られない事態になっているようである。何せ、辞めると言っただけで、いつ辞めるか言わないまま延々と辞めないという事態が続くのだから、実は辞めると表明した以前と事態は何も変わっていないのかも知れない。むしろ内閣不信任案を否決したおかげで、菅政権は少し磐石になったともいえる。とはいっても、復興そっちのけで政治上の争いをしているとすれば、みっともないだけであるが。


 ある民放ラジオで、有名なキャスターが、冗談めいた言い方ではあるが、来年まで菅政権で行くのではないかと言っていた。しかし、あながちありえないとも言えない。財政や復興に必要な法案成立が菅政権のもとで最後まで行われたとすれば、菅首相のしぶとさは、歴史に残るくらいの名対応かもしれない。

 そもそも、次の首相に誰を指名するかという話はあまりまとまっていないようだし、菅首相が辞める時期ばかりが話題になっている状況なのだから、本当にすぐ辞めてしまったら、首相選びや政権運営がもっと混迷してしまう可能性が高い。結果としてすぐには辞めずに粘る方が、財政や復興に関する法案を早く通すためにはかえって最善ともいえないだろうか。


レディー・ガガさん

2011-07-02 03:25:00 | 音楽
 先日来日したレディー・ガガというポップスシンガーの話題が随分聞かれる。以前から、音楽より奇抜なファッションで話題が多かったと記憶しているが、最近は『Born this way』というニューアルバムがトップランキングという。

 以前たまたま、そのBorn this wayという曲のプロモーションビデオを見てしまったが、そのグロテスクな映像世界には大変驚いた。こういう映像が果たして人気なのか少々疑問ではあったが、その異常さゆえに大衆受けしているのだろうか。天才好きな池田晶子さんは、このような音楽には何の興味もないだろうが、ややアングラなイメージのレディー・ガガさんを天才に含めてくれるだろうか。少し躊躇しそうだ。商業的には相当成功しているようなのだが。


 このBorn this wayという曲の歌詞を見てみると、随分映像とギャップのあるシンプルな内容だった。この歌詞を哲学的だという人もいるようだが、果たしてどうだろうか。題名からして、自分はこのように生まれたといい、歌詞の内容は基本的には、私は私でいいんだ、という徹底的な自己肯定の内容である。


 歌詞の中には、少し池田晶子さんの謂いに似ている部分もある。「人種や民族は関係ない」とか「自分の人生を生きるしかない」という趣旨のところだ。しかし、歌詞全般はやはり全面的自己肯定でしかないようである。この歌詞のメッセージで、安心し癒される人も多いのかも知れないが、そこで終わっては哲学的とは言い難い。


 自分は自分のままでいいんだと、自分は完璧だと思ってしまい、その先を考えないとすれば、それは思考停止としか言いようがない。そもそも、その存在が信じられている「自己」とは何か、というのが池田晶子さんのよく取り上げる問いである。考えることは無限大に広がるのであり、我々は未だ考えることの出発点にいるのだと思ったほうがよい。池田晶子さんのよく言う“振り出し”だ。この曲を、自己というものを振り出しから考えるきっかけにするならば、まさに“哲学的”である。