哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

3分間池田晶子「自分が何者でもないということ」

2008-03-17 02:09:30 | 哲学
 Nobodyとは、自分が何者でもないことを言っている。このことに関して池田晶子さんが繰り返して書いていた言葉のひとつは、「「私」を自分の名前や鼻の頭を指す以外の仕方で示してみてほしい」である。鼻の頭を指す、という具体的な描写が可笑しみを誘うが、「私」というものが肉体に同化したものではなく、精神としての存在であることを気付かせる。

 しかし抽象的に言ってもわかりにくいから、具体的な場面で池田さんは端的に表現する。例えば「日本人の誇り」について、である。


「人はなぜ自分を日本人だと思っているのか。むろん私は日本国籍を有する日本人である。しかし、それは、池田某が日本人であるのであって、「私」が日本人であるのではない。「私」は何国人でもない。どの国家どの民族にも属してはいない。

(人は)日本人であることに誇りを持てといえば、おそらくもつであろう。なぜなら、げんに日本人だからである。そも自分に誇りをもてない人が、努力なしに誇りをもつ仕方としては、いちばん楽だからである。しかし、空疎な精神が空疎なままに、日本人であることに誇りなどもって、いったい何がよくなるのだろう。本当に「日本」の将来をを考えるなら、「日本人」よりも、各自の「精神」をよくするほうが、順序としては先ではないのか。」(『考える日々』より)


 上の言葉のように「空疎な精神が空疎なままに、日本人であることに誇りなどもって、いったい何がよくなるのだろう。」というから、池田さんの表現はときに挑発的に映るのだろうが、これはもちろん「きちんと考えればそうなる」だけのことであるから、池田さんのせいではない。

 日常生活では我々は名前を持ち、いろんな観念上のものに帰属したりしている。それに安住することは楽であることも多いが、一方で帰属することによって縛られることも多い。しかし、それは自分で自分を縛っているに過ぎないことを、池田さんの言葉によって気付く。それが、川上未映子さんの言う「池田さんの角度」であろうし、その意味で精神的に救われる人も多いのかもしれない。

Nobody 一周忌

2008-03-08 09:30:30 | 時事
 あれから1年になります。亡くなられたのは2月下旬ですが、新聞発表等で世間に知らされたのは、ちょうど1年前の3月の今頃です。

 ところで、池田晶子記念という賞が創設され、第1回の受賞が件の川上未映子さんだそうです。


(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞


 このNobodyですが、“自分”というものが何者でもない、ということは池田さんは何度も書いておられます。上のサイトで紹介されている「墓碑銘」の「さて死んだのは誰なのか」というのは、その最後のものといっていいでしょう。この言葉は、ローマの墓碑にあるという「次はお前だ」という言葉に触発されたものです。その文章を少し引用してみましょう。


「他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思い出すのだ。・・・こんな文句を自分の墓に書かせたのはどんな人物なのか、・・・諧謔を解する軽妙な人物である一方、存在への畏怖に深く目覚めている人物ではないかという気がする。生きている者は必ず死ぬという当たり前の謎、謎を生者に差し出して死んだ死者は、やはり謎の中に在ることを自覚しているのである。」


 「次はお前だ」という言葉のもつ、今生きている者を死へ引きずり込むような、圧倒的な吸引力は、池田さんの誉める通り、とても秀逸です。

 池田さんの「さて死んだのは誰なのか」と併せて、存在の謎を考えるにはいい言葉でしょう。