哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

「2005年」はこの人に訊け!(週刊ポスト2005年1月1・7日号)

2014-01-05 19:42:52 | 哲学
池田晶子さんが書評を書いていた週刊ポストの、2005年新年号の表題テーマの記事では、「自分の人生をみつめる「定点」を手に入れるとラクに生きられる」と題した文章を寄せていた。その内容は至って簡単な(当たり前な)ものであり、あまりに根源的であるがゆえ、まるで何も言っていないことと同じであるかのような、池田晶子さんらしい文章であった。


少し紹介すると、昨今世の中はものすごい勢いで動いているがゆえ、未来がどうなるかわからなくて不安であるという状態を指摘したうえで、次のように書いている。

「しかし、不安になるのは、その通り先のことがわからないからである。しかし、人生の先がわからないのは、何も今に始まったことではない。そう思って今一度自分の人生を見てみると、世の中が動いているようには、人生の姿というのは、いつの世もあんがい変わらないものだということに気がつくのである。世の中がいくら変わったところで、そこで自分が生きて死ぬというこの事実の側は、ほんの少しも変わらないではないか。
 ・・・(中略)・・・自然すなわち人智には絶対不可解な大宇宙に、この自分が生きて死ぬとはどういうことなのか、考えて気がつくだけでも、我々の人生は変わるのである。なんだ人生というのは、あんがい変わらないものだなと。
 変わるものにおける変わらないものとは、定点である。定点からみると、先行きどうなるかわからない地球上のこの状況も、永劫の宇宙史における一風景、そんなふうに見えてくる。定点とは、相対化する視点である。これを手に入れるとラクですよ。」


「自分である」「生きて死ぬ」「世界がある」というような当たり前のことを考えないで怠ってきたから、今の世の中がこんな風だ(戦争が起こるのは自分や国家という当たり前を疑わないから。子供が人を殺すのも生きているという当たり前の不思議を忘れたから)とも書いている。


「定点」を手に入れた池田晶子さんの文章は、まるで兼好法師の『徒然草』の文章と同じような視点で世の中を見ているような気がしてならない。いつの時代も、生きて死ぬことは変わらない、ということの証左なのだろうか。

性善説と性悪説

2013-08-04 19:01:15 | 哲学
性善説か、性悪説か、という二者択一のような話にとりつかれていたことがある。本の帯に「性善説か、性悪説か」と書いてある『右手に論語、左手に韓非子』(角川SSC新書)という本を最近読んでみた。論語が性善説であり、韓非子が性悪説だそうだが、この本の著者は、現代の日本は性善説が残っている社会だが、外国や中国などは性悪説であるとしている。基本的に性善説は、人を信用する前提なので、脇が甘くなってしまうが、性悪説を前提にするならば、人は利益に執着するとみて統治することになるという。著者の立場は、性善説の良い部分を残しながら、性悪説で補完するという考えのようだ。


確かに、日本の社会は外国と比較して、性善説が前提であることを感じる場面は少なくないのではないか。田舎では、よく無人販売店があったりするし、そこまでではなくとも、自動販売機の多さに外国人は驚くという。しかし一方で、刑法をはじめとする法治国家という存在そのものが、すでに性悪説を前提としていると言える。刑法とその効力が整備されなくては、犯罪がなくならない社会ということであれば、性悪説を前提としなければならないのだろう。しかし、法律でこそ社会の安定が図れるとする性悪説に対して、そうではないやり方で社会の安定を目指すのが性善説であるから、日本の社会において性善説が残っているとするならば、その背景と歴史はよく自覚しておきたいものだ。論語が性善説であり、それが昔から読み継がれてきたことが土台にあるならば、韓国も中国も同じ土台ではないのだろうか。孔子の生誕地は世界遺産にもなっているとのことなので、性善説の土台が影も形もないわけではないはずだ。


池田晶子さんは、人は善を知れば善をなす存在としているのだから、性善説ともいえるが、悪を知って悪をなす人はいない、と言っているので、決して性悪説の対立概念として言っているのではない。


「「性善説」という言い方は正確ではない。何かうまい言い方はないものかと、かねてから思っている。「性悪説」に対して「性善説」があるのではない。人は自分を知ろうとすることによって自ずからそうなるというそのことが、言ってみれば、「善」ということなのである。誰もわざわざ「自分にとって」悪いことを、するはずがないからである。」(『あたりまえなことばかり』「善悪を教えるよりも」より)


つまり、悪が定義として自分に悪いことなのだから、人は悪を行うはずはなく、それでも悪を行なうのは、それを悪と知らないからなのだ。だから、池田晶子さんの辞書には、性悪説は定義上ありえないことになるのであろう。

通常の性悪説の悪は、利益に執着して犯罪でも起こすという趣旨であり、社会にとって悪でも自分にとっては善いと考える行動性向を指すのであるから、そもそも善も悪も相対的な意味となってしまう。池田さんは、そのような言葉の意味が相対的となるような定義は採らない。自分にとって善いということは、それは社会にとっても善いことでなければ、それは善とはいえないのだ。


鷲田清一著『ひとはなぜ服を着るのか』

2013-05-25 06:28:28 | 哲学
確か新聞書評だと思うが、鷲田清一氏の『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫)の文庫化を取り上げていて、ファッションやモードを哲学的に考えた気軽な本というイメージで読み始めた。読んでみると、服のことのみならず、皮膚や化粧にまで話題は広がり、意外に深く考えさせられる内容であった。

とくに印象深く思ったのは、概念の両面性、あるいは対立概念の含意である。例えば、ファッションは流行することを大前提としているが、それはいずれ必ず流行は廃れることも含意している。だから、ファッションは常に新しく更新されなければならない。また、制服は規律にたいする従順さを表すゆえ、その従順さを凌辱するような眼差しを呼ぶ逆の面があるという(コスプレが典型)。いずれも、対立する概念が一つのものの内部にあるのである。

さらには、境界のゆらぎ、というような考え方も面白い。例えば「下着とは、わたしとわたしでないものとの境界というよりは、むしろその二つがかさなる場所、つまり〈わたし〉であり、かつ〈わたし〉でないような、あるいは〈わたし〉の内部(インテリア)であり、かつ外部(イクステリア)であるような、曖昧な場所なのである。」(掲題書より)とある。そして、そこに他人の欲望、エロティックな視線もその場所を駆け巡るという。つまり、自他の区別は境界でゆらいで重なり合い、まるで快楽と欲望により、自他の融合を指向しているかのようだ。

このことから考えを進めると、日常に起こるあらゆる事象はもちろん、あらゆる概念は常にその対立概念をその内側に秘め、しかも融合するかのように揺らいでいるのではないか。例えば、生の対立概念は死であるが、生は死があってこそ明らかになる概念である。つまり、死がなければ生はない。実は、生という概念の内側に死という概念が含まれている。一つの概念は対立矛盾するものを常に含意するのだ。まるで生きている個体の中では、細胞が常に死んで再生しているように、その内部では生と死がせめぎ合い、生と死は矛盾し揺らぎながら、成長と老成へと進んでいく。

これはまさに、弁証法そのものではないか。



『ハイデガー拾い読み』(新潮文庫)

2012-11-11 23:38:23 | 哲学
 文庫の新刊だというので、早速読んでみた。この本の著者によれば、ハイデガーの講義録はわかりやすくて面白いから、それを拾い読みにしたのだそうだ。しかし、難解な用語解説が長々とあったりして、そんなに気軽に読めるような内容ではなかった。それでも、面白い部分もあったので、少し引用してみよう。プラトンに関するところである。


「要するに、ハイデガーの考えでは、〈哲学〉とはプラトンのもとではじまった知の形式であり、プラトンの〈イデア論〉からうかがわれるように、生成消滅する〈自然〉の外に〈イデア〉のような永遠に変わることのない存在、つまりは超自然的な原理を設定し、それを参照にしつつ自然を見る〈超自然学〉つまり〈形而上学〉だということになる。」(P.163)


 このプラトンに対して、ニーチェは「プラトンとともに何かまったく新しいことが始まった。・・プラトン以来、哲学者になにか本質的なものが欠けている」と批判したそうで、ハイデガーもニーチェの考えに同調しているということだ。


 さらにこのあとの文章では、プラトンがイデア(本質存在)を真の存在と見ているのに対し、アリストテレスは事実存在に優位を認めるとして、西洋哲学の進行を決定付けた二人の関係をハイデガーが解き明かしている、と紹介されている。確かにこのあたりの話も簡単ではなかったが、大変面白い内容であった。でも、池田晶子さんは、これらのことをもっと日常の言葉で端的に表現していなかったか。


「プラトン イデア界なんてものが、いったいどこにあるというのか、それこそこの目に見せてもらいたいですよ。
ソクラテス どっか別のところにあると思うんだろうな。
プラトン どっか別のところにあると、自分で思ってんだから、実現しないのは当然ですよ。自分の中にしかないってのに。」(『さようならソクラテス』「理想を知らずに国家を語るな」より)


『8 はじける知恵』(あすなろ書房)

2012-07-10 06:38:00 | 哲学
前回紹介した本と同じシリーズの掲題書籍にも、池田晶子さんの文章が載っている。『考える日々』からの文章だ。今回は、若い人からの手紙を紹介し、お勉強としての「哲学」ではなく、自ら「考える」ことを実践している若人が増えていることを素直に喜んでいる。
また、同じようなことを考えている人は少なくないとしながら、表現には個性が出るはずとも書いている。確かに、有名な哲学者も含め、池田晶子さんの言う通り、人間の言語と文法によって存在を考える限り、そんなに違ったことにはならないはずだが、逆に表現が様々な中から正しい哲学原理を把握することは、むしろ情報量が増えるほど物理的には困難になるかもしれない。本屋の膨大な書籍の中から、池田晶子さんのような文章に出会えるのも偶然な邂逅である。真っ当な表現に確実に出会うには、やはり古典に回帰することなのだろう。
それにしても、今回池田晶子さんらしい文章だと思うところは、人類の進化について言及している点である。池田晶子さんはよく、「賢く」なっていない人類の行為を指摘することも多いが、今回は、後の人類ほど賢くなっているはずという知恵の進化論みたいなものを仮説として書いている。池田晶子さんがいくつか提唱している仮説の一つである。この仮説がいずれ証明されるかどうか、は「考える」若人に期待するところだ。

『6 死をみつめて』(あすなろ書房)

2012-07-02 22:19:19 | 哲学
「中学生までに読んでおきたい哲学」というシリーズのうちの1巻として、掲題の本が書店に並んでいる。この本のことは先日ある新聞の広告欄で知ったのだが、いろんな人の文章の寄せ集めであり、なんと池田晶子さんの文章が載っているというので、入手してみた。

池田さんの文章は「無いものを教えようとしても」というもので、『考える日々』からの文章だった。編者があとがきで各文章を評しているが、池田さんの文章については面目躍如と好評価しているようだ。

ところで、気になるのは他の人の文章との相性だ。埴谷雄高氏や河合隼雄氏など、池田さんと親和性の強そうな人の文章もあるが、他の人の文章はどうだろうか。

かつて中学生向けの、いろんな人の文章の寄せ集めという点では同様な『中学生の教科書』という本で、池田晶子さんは自らの主著となる『14歳からの哲学』の一部にもなる文章を書いているが、それを後に「寄稿扱い」としている。その理由は、『中学生の教科書』に掲載した他の作家の文章内容が、池田さんにとって「同意しかねる」内容だったからだ(詳しくは、『考える日々Ⅲ』の「換金できない言葉の価値」を参照)。

今回の表題の本も、大変多くの作家らの文章の寄せ集めであるが、全体的に池田さんが同意してくれる内容なのか、池田さんは死についてよく書いていたから、ちょっと心配ではある。


週めくり池田晶子 52

2012-04-17 07:20:00 | 哲学
 『14歳からの哲学』を再読してみて、この本には、池田晶子さんの言いたいことのエッセンスがすべて詰まっていることを再認識した。大人向けならば『残酷人生論』の方がインパクトが強いのだが、池田晶子さんの通常の文章はあくが強いので、万人向けとなれば、子供向けにかかれたこの本がもっとも良いといえる。週めくりの最後は故事成語だが、池田晶子さんがこの本の終りの方で、この言葉を人生の標語にするように書いている。




52 天網恢恢疎にして漏らさず


 天の網は広くて粗いようだけれども、悪事は必ず露見する、悪人には必ず天罰が下るという意味だ。むろん、天罰を下すのは天じゃない。自分の内なる善悪だ。自分が為した悪事の罪を、自分のために罰するんだ。因果応報、罪の罰は、必ず自分に帰ってくる。なんのためかって、自分のためだ。それより自分が悪くならないように学ぶためだ。悪を為さずに善を為し、よりよくなろうと学ぶこと、それが、存在することに意味のない人生を生きることの、本当は、意味なのかもしれない。(『14歳からの哲学』「28 人生の意味[2]より)

週めくり池田晶子 51

2012-03-12 01:42:00 | 哲学
今の職場に“さだまさし"ファンがいて、卓上に彼のカレンダーが置いてあり、そのカレンダーは週変わりでさだまさし氏の言葉が紹介される仕組みになっている。なるほど、週めくりでの紹介の仕方もあったのか、と感心した次第である。
そこで、「日めくり池田晶子」も続編の52までを 週めくりとして一旦締めくくろうと思う。最後の2つは、池田晶子さんの主著といえる『14歳からの哲学』からである。




51 精神は自分を自覚する。


 精神としての自分を自覚するんだ。そして、精神にとっては精神よりも大事なものはないと知る。なぜなら、精神としての自分にとって何が大事かを考えて知ることができるのが、まさしくその精神だからだ。精神にとっては、精神こそが大事なもの、他の何ものにも換えられない価値なんだ。自分を大事にするとは、つまり、精神を大事にするということなんだ。(『14歳からの哲学』「18 品格と名誉」より)



意見

2011-12-19 00:11:00 | 哲学
池田晶子さんは、意見を持たないと何度も書いている。


「私は、政治や経済や、広くは世の中一般の出来事について、「意見」というものをもったことがない。正確には、もつことができないのである。「御意見を」と訊かれると、いつもほとんど絶句する。
これはどうしてかというと、私は、考えているからである。そのことについて意見を言うより先に、そのことについて考えているからである。考えるとは、知ることである。そのことの何であるかを知るより先に、そのことについて言うことはできないのは道理であろう。」(『私とは何か』「「意見」を言うということ」より)


個人の意見を述べたところで、それが正しいものであるためには、万人にとっても正しいものでなくては、正しい意見とはいえない。つまり、正しい意見を言うためには、まず対象をしっかり考えたうえで、正しいことを知らなければならないわけだ。
そうすると民主主義のこの時代、政策を選んで自らの意見を選挙で表明するには、まずは民衆一人一人がしっかり考えて知らなければ、正しい選択ができない。しかし、国家機能は複雑高度化しており、政策の元となる情報を全て判断して選挙の票を投じることがどこまでできるだろうか。
すると、前回引用した項の別の箇所に、次のような文章があった。


「私は、「哲学的には」、「個人の意見」を無意味とみなすが、政治的には、様々な個人の意見があって然るべきだと思っている。」(『知ることより考えること』「絶叫首相とその時代」より)


政治であれば様々な意見があっていいというのは、池田さんの最初の文章からすると、少し後退した印象もあるが、民衆が行政上の全ての情報を得て正しい政策を選択するというのは不可能であろう。しかし、民主主義である以上、自らの責任で選挙に投票し、自分たちの決めたことには責任を負わなくてはならない。よって、結局は少ない情報でも、それを元に意見をもって選択しなければならないということになる。選挙だから、結局は言っていることに信頼を持てる政治家を選ぶということだろうか。政治家の言葉が重要になる所以か。


日めくり池田晶子 50

2011-11-20 19:10:10 | 哲学
 池田晶子さんの代表作の一つであるソクラテスシリーズの中でも、ごく普通のサラリーマンがこぼしそうな言葉にするどく切り込んだ今回の文章は、哲学の論理と日常の会話のような言葉とのギャップが大変面白い。酒好きな池田晶子さんと居酒屋で飲んだら、きっとこんな会話になるのだろう。




50 人生は理屈以外の何ものでもない。



ソクラテス 君は、君の人生で、したいことをしていないと言うんだね。
サラリーマン 当たり前じゃないですか。世のサラリーマンで、したいことをしているなんて言えるヤツがいたらお目にかかりたいですよ。したいことをする自由がないのが、サラリーマンというものなんです。
ソクラテス それなら、やめちゃえばいいじゃないか。
サラリーマン またそういうことを-。これだから自由業のヤツとは話が合わないんだ。
ソクラテス そうかね。それで僕は、君がしたいことをする自由がないというから、したいことをするためにそれをやめる自由が、君にだってあるじゃないかと言ったんだが。
サラリーマン そりゃあ理屈ではそうですよ。でも家族の面倒はどうするんです。
ソクラテス 君が責任もって面倒みるんだよ、当たり前じゃないか。
サラリーマン それが大変なことなんです。私ひとりならまだしも、私の年齢で組織を離れて、家族に人並の生活をさせるのは並大抵のことじゃないんです。貴方はほんとに何もわかっちゃいないんだから。
ソクラテス それなら家族を捨てちゃえばいいじゃないか。
サラリーマン まったくもう-。
ソクラテス じゃあ、逆に僕から尋ねるけどね、君が所帯をもったのは君の意志だね。
サラリーマン 意志だなんて御大層なものが、あったのかどうか。まわりが皆そうしているから、何となくそうしただけですよ。
ソクラテス しかし、そうしないこともできたのに、そうしたんだから、それは君の意志だね。
サラリーマン まあ、言い方なんて、どっちでもいいですけどね。
ソクラテス 子供を作ったのも君の意志だね。
サラリーマン 意志も何も、出来ちゃったものはしょうがないでしょう。
ソクラテス しかし、作らないことを意志することもできたんだから、やはりそれは君の意志だね。
サラリーマン まあ、そう言っても構わんですけどね。
ソクラテス 所帯をもったのも、子供を作ったのも君の意志、そして、それを捨てることができるのに養うことを現に選んでるんだから、これも意志だ。すると、君の人生は何もかも君の意志どおりに動いてきてるじゃないか。
(『帰ってきたソクラテス』「不平不満は誰に吐く」より)