哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

主任検事と尖閣諸島

2010-09-23 03:59:00 | 時事
 主任検事が証拠を改ざんしたのではないかとして逮捕された事件は衝撃的であった。不正を追及すべき公の組織で起きた問題であり、また主任検事というのは相当上の立場だそうだからだ。報道では、自分たちのシナリオ通りに運ぶためだったようだが、要するに都合の悪い証拠を葬り去る意図だったのだろうか。

 それにしても注意したいのは、この事件を決して対岸の火事と思わないことだ。組織であれば、また出世や保身が絡めば、きっとどこでも起きそうな話だからだ。一度進めてコストをかけたプロジェクトを途中で止めるのは相当な決断力を伴う。たいていはこれまでかけたコストを無駄にしたくないために、さらに最悪な事態へ突き進むことになりやすいことが、失敗学などでよくいわれる。今回の特捜も、捜査を開始して証拠によって起訴が無理な可能性が出て来たならば、通常は方向性を変えればいいと思うのだが、大きな話題性のある事件だからかえって後戻りできなくなってしまったのだろうか。


 話は変わるが、尖閣諸島の漁船衝突事件についても、現在捜査中ということになっているが、一部の新聞報道では、唯一の証拠であるビデオの内容が、必ずしも故意ではなく潮の流れによって発生した可能性もあるとの意見もあり、もしかしたら日本側のシナリオ通りにいくとは限らない可能性もあるようだ。こちらは外交問題になってきているから、かなりシビアな結果になりそうだ。

 そもそも捜査に関して、日本は中国に負い目がある。餃子農薬混入事件で、日本側は外袋に穴がないことを根拠に中国で農薬が混入したと主張していたのに、かなり後になって実は小さな穴があったことがわかったことがあった。結局は中国側で犯人を捕まえた結果になったと思うが、捜査に関して必ずしも日本は信頼を置けないことを認識させられた。

 いずれにしても、ナショナリズムをあおるような馬鹿な真似だけはお互いに避けてもらいたいものだ。

コーラン焼却騒動

2010-09-20 22:33:00 | 時事
 9月11日のテロ事件記念日にコーランを焼却しようとする動きがあり、記念日直前に連日報道されていた。結局貿易センター跡地近くにモスクを建てることを別場所にする約束でそれは回避されたという。しかし、テロ事件以降、イスラム教信者への差別が強まっているとの報道も多い。

 世界はどんどん不寛容な時代になっているのか。確かに宗教同士の戦争は人類史でも多くの時代で行われてきた。しかし、宗教自体はそもそも寛容の精神であったはずだし、人類は歴史の過程においても寛容さこそ必要ということを学んできたはずではなかったか。



「理性の言葉によって論駁することはできる。納得しようとしまいと、正しく語ることならばできるのである。本当に難しいのは、納得しようとしないその感情をも納得させ得るような正しさの言葉だろう。本来は、宗教の言葉こそが、争いと憎しみのこの人類史において、そのような役割を果たしてきたのではなかろうか。」(『ロゴスに訊け』「汝に敵は存在しない」より)



 2001年9月のテロ事件後、多くの人が衝撃を受け、そしていろいろな語られ方をしたが、たいていはテロ側に反対する論調だった。しかし、チョムスキーのように大勢に迎合しない論調も、少なかったが見られた。決して多数であることが正しいとはいえないことを改め考えさせられたものだ。しかし多数に反対することは、なぜか勇気を強いられる。多数に迎合することなく正しいことを堂々と言えるかどうか、これは一人一人が常に試される問題だ。

命を張った署長

2010-09-06 07:05:05 | 時事
 また前回の続きになるが、前回の4人のうち命を張ったといえるのは、まず鶴見署長が挙げられるだろう。1000人の暴徒の前で制止する行為は、ちょっとしたことで暴走する可能性が高いからだ。牧師も、見つけられたら危ないという意味で2番目に挙げられるかもしれない。シンドラーや千畝は、救う行為そのものに対して命を落とす危険は直接なかったように思われる。

 このように、命を張るという行為は普通人にはなかなかできないという意味で、貴い行為のように思われるが、正しい行為のために命をかけたという言い方をしてしまうと、池田晶子さんから喝をくらうだろう。正しい行為と命は天秤にかけることはできない。なぜなら我々は死とは何かを知らない以上、生をもよくは知ってはいない。知りもしないことを正しいことと比較できないのである。池田晶子さんは、ソクラテスについて繰り返しそのことを書いている。



「生きている限り誰も死を知っているはずはないのに、それを知っていることであるかのように恐れるのは、正しくないではないか。しかし、私は正しくも、自分がそれを知らないということを知っている。ゆえに死を恐れるということをしない。だから不正な死刑判決でもかまわない。」(『人生は愉快だ』「ソクラテス」より)

「かくして毒杯を仰いだとプラトンの筆によって記されたソクラテスを、後二千年間人々は、「正義に殉じた真実の人」と讃えている。すなわち、未だもって殺し続けているのである。」(『メタフィジカル・パンチ』「ソクラテスさん」より)



 未だもって殺し続けている、とは随分な謂いであるが、確かにそうなのであろう。

千畝、シンドラー、署長、牧師

2010-09-04 16:55:11 | 時事
 昨日の関東大震災時の鶴見警察の件に関連して、もうひとつ思い出した。このブログでも以前書いたと思うのだが、アフリカのツチ族とフツ族の民族同士の対立での大量虐殺事件だ。このとき、一方の民族の女性を10数人程かくまった牧師がいた(確かキリスト教の牧師だったと思うが)。家屋の狭い屋根裏のようなところに押し込めたので、大人数は入れられず、あとから助けを求めてきた人は断ったというから、他の例ほど感動を呼ばないのかもしれない。

 ここで思ったのは、なぜこのように助ける行為に及んだかが、上の例だと牧師という職業であることが大きいように思った。宗教は基本的に人助けが目的だから、可能な範囲でそれを行ったように思える。牧師としての職業精神に沿った行為を行ったというわけだ。

 そうすると鶴見警察の件も、警察官であったことがかなり大きい要素を占めるように思えてきた。民族が違っても、殺人行為に及びそうな状況を警察の立場で促進するわけにはいかない。警察官という職業規律に従おうというような職務意識は、普通の人なら持っている。ただ、1000人の勢力に囲まれても貫徹できるかは、その人の胆力によりそうだ。

 シンドラーも、経営者の立場でユダヤ人労働者を安価に利用できたという点で、経営合理性から行った行為である要素が大きいようだ。それが結果的にユダヤ人を救うことになったが、あまり崇高な精神からユダヤ人を救ったというわけではない、という批判を聞いたことがある。

 以上の3人に対して、杉原千畝だけは同類にできない。職業精神とか他律的な観点から結果的にユダヤ人を救ったのではなく、むしろ職業規律に反してユダヤ人を救ったからだ。大使館からユダヤ人が救いを求めてビザ発給を求めたとき、外交官だった千畝は本国にビザ発給の可否を問うが、ドイツと同盟を結んでいる政府の回答は「不可」であった。彼は公務員なわけだから、政府の指示に従うのが本来であったが、結果的に大使館撤収時までの数日間に約6000人のビザを発給した。この事件によって彼は“戦後”に外務省から処分を受け、ロシア関連の商社に再就職したそうだ。彼の名誉が回復したのは、日本のシンドラーとして有名になってから何年もたってからであった。

 個人の正義を第一とし、国や所属する集団の意向に反して行動することは、今の時代であっても決して簡単なことではないように思える。正しい行為とは何か、サンデル調に考えてみたい。

鶴見警察のシンドラー?

2010-09-03 23:17:17 | 時事
 昨日だったかNHKのニュースで、関東大震災時におきたデマによる朝鮮人虐殺事件のとき、300人の朝鮮人を警察署にかくまった警察署長の話が紹介されていた。恥ずかしながら知らなかったのだが、webで検索すると杉原千畝やシンドラーと似た話として結構知られている話のようだ。

 そのとき鶴見警察は1000人の日本人に囲まれ、300人の朝鮮人を差し出すように迫られたのだが、その警察署長は体を張って守り、あきらめさせたそうだ。今となっては、警察署長の行為は誰からも英雄扱いされるだろうが、そのときは1000人の反対意見の日本人に対して、もしかしたら自分の命さえも失いかねない異常事態の中で、たった一人で自分が正しいと信じる行為を貫いたわけだ。もしこのような事態に自分が遭遇したとしたら、果たして同じ行為ができるだろうか。

 この話で思い出したのは、黒澤映画の「七人の侍」の1シーンだ。うろ覚えだが、侍たちが敵方の野武士を1人捕虜にしたところ、村の農民たちが殺された家族のかたきとしてこの捕虜を殺そうと引き渡しを迫る。侍たちは始めはなだめようとするのだが、農民たちの強い要求に最後は屈してしまう。

 多数の主張に迎合することはやさしいが、自分が正しいと信じて抵抗し続けるのは何と困難なことか。いや、正しいことが何かわかっている人にとって、これを困難とは決して言わないのであろう。正しいのだから、たった一人であっても何もひるむことはないのだ。