哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

学者の魂(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-11-24 22:57:35 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「学者の魂」という題でした。池田さんが畏敬していたとはちょっと意外だったのですが、先日亡くなられた、学者の白川静さんの話題です。




「評価されず、黙殺され、しかし一貫して変わらなかった学究への情熱、その信念とは何か。嬉しいではないか、これこそが自身としての伝統への深い信頼なのである。知ることに命を賭けてきた精神たちの歴史として学問、我こそがそれに参与しているという確信と自負である。覚悟としての学問である。個に徹するほど普遍に通じるという人間の逆説がここにある。」




 白川静さんは、漢字の学者さんとして一番有名だと思いますが、今更ながら万葉や孔子などいろんな本を書いておられることを知りました。

 でもやっぱり白川さんは、漢字の話が謎解きのように面白いですね。白川さんの漢字の話を読むと、正しい言葉の姿を印象付けられます。


 一方で、そういう漢字の面白さを知ると、世間において漢字を粗末に扱われるとちょっと嫌な気分になります。



 例えば、有名経営者なんかが、漢字をネタにして教訓を垂れることがよくあります。最近も「聞くと聴くは違う。聞くは門に耳をそばだてているだけだが、聴くは十四の心を耳で聴くと書くのだ。それだけ積極的にいろんな人の話を聴くのが大事なのだよ。」という話を聞きました。


 しかし白川さんの『字統』を見ると、聴くの右側上の部分は目に呪飾を付けたものとあります。むしろ聖と同じ由来で、神の声を聞くことをもともと指していたようです。



 漢字の由来を探究していくと、古代の人がどのような思考や世界観を持っていたのか、がわかってくるそうです。池田さんの仰る通り、普遍の探究につながりそうですね。

いじめの憂鬱(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-11-19 23:58:40 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「いじめの憂鬱」という題でした。いじめられた子が抗議の自殺をしても、いじめた子に果たして罰を負わせることができているだろうか、と疑問を述べておられます。




「人間には命より大事なものがあるということを理解しない社会が、生きた者勝ちのまさにこの社会である。抗議の自殺が成立しない。無視されるか笑われるだけである。

 自殺が無効と知った子は、それならどうするだろう。ひょっとしたら、後ろから刺すとか、毒を盛るとか、受けたいじめを上回る卑怯な手段で報復に出るかもしれない。」





 いじめられた子が自殺をしても意味がないことを知ったら報復として殺す側にまわる、なんてことはあまりちょっと考えにくいですが、池田さんの言いたいのは、命より大事なものがあるということを理解しない社会が、それゆえ命の奪い合いで勝負を決するというおぞましい社会になるしかない、という結末でしょうか。




 そもそも、人を殺すことが悪いことか、という問いから昨今の哲学ブームが始まったように思います。

 それに対する池田さんの答えは、池田さんの機嫌が悪ければ「自分で考えよ」と突き放され、機嫌が良ければ「問うからには、既に答えがある」と仰ったでしょう。



 最近あるテレビ番組を見ていたら、金もうけは悪いことですか、と有名人に聞いて回っていました。

 山田洋次監督は寅さんならどう答えるかと想定して、寅さんの機嫌が悪ければいきなり殴られるだろうが、機嫌が良ければ「それを言っちゃあ、おしめえよ!」と言って肩を叩くだろうと答えていました。



 やはり、答えがあるからこそ問うているのは同じなのでしょう。

どうすればいいのか(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-11-12 22:20:30 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「どうすればいいのか」という題でした。池田さんは講演会において、しっかり説明したつもりなのに、表題のような質問を受けてトホホ感になるそうです。



「「どうすればいいのか」とは、ある意味で人生の常態である。人生は自分が生きるものである。だからこれを自分に問うのは理解できる。しかし、この問いを他人に問うとはどういうことなのだろうか。」



 確かに池田さんの仰る通り、人生は自分で生きています。しかし実社会において、表題のような問いはあちらこちらで聞かれます。


 社会において「先生」と呼ばれる人に対して、大衆は常にそのように聞く権利を持っているようです。池田さんも世間においては「先生」ですから、「自分で考える」ことを説明しているにもかかわらず「どうすればいいのか」と教えを乞われるわけです。


 つまりは、学校の先生にだって、医者の先生にだって、弁護士の先生にだって、「どうすればいいのか」と聞いて指南をいただくのが、庶民たる我々のささやかなる権利なのです。


 所詮自分の意思でこの世に生まれたわけではないのですから、その未知なる人生全てについて自分で責任を負うのは、あまりにも重過ぎます。他人に責任の一端を負ってもらえば少しは楽なのです。


 そして人生は未知なるゆえ、池田さん自身もこう書いておられます。自分だってどうすればいいのかは知らない、だから考えるのだと。

玄侑宗久さんの『現代語訳般若心経』(ちくま新書)

2006-11-06 22:26:05 | 
 仏教で扱われる「空」について考える、面白い本を見つけました。全般的に般若心経を口語に訳して会話体にした、ちょっと池田さん風のソクラテス会話体を思い出させるような、読みやすそうな本です。


 ただ、おそらく池田さんが読めば、「なぜいちいち脳なのか」というくらい、脳に関する科学的知見がちらとちらと紹介されていたり、ソクラテスの死がやや否定的に扱われたりしている点について、少し引っかかりがあります。しかし、それ以外については、池田さんの言葉に整合しそうな考え方が随所にあります。



 この本の中では、「空」とは何か?について、「自性がないこと」と説明されています。また、あらゆるものと関係付けられるものが「空」であるともされています。

 つまり、自ら有する性質がなく、どこにでもあるものが「空」ということでしょうか。そして、どこにでも在るということは、どこにも無いに通じると・・。う~ん、結局よくわからなくなくなってしまいました。



 と考えつつ、何気なく見たテレビ番組で、手塚治虫さんの漫画「火の鳥」の話をしていて、ふっと思いつきました。そうか、どこにでも在りながら、実体は無いようで、自性のない存在といえば、手塚治虫さんの「火の鳥」そのものではないですか。

災難の心得(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-11-03 10:00:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「災難の心得」という題でした。テレビでは、隣国の核のニュースも競馬やスポーツニュースも同一平面で報じられており、災難をリアリティーなく受け止められている事のおかしさを書いておられます。



「災難というのは、常に他人の災難である。高齢者の遭難騒ぎを見ても、それを感じる。自分は決して災難に遭わない、と認識していると思われる。

 この根拠のない思い込みをより正確に言うと、自分が死ぬということはない、死ぬのは常に他人である。あるいは、これからも生きているだろう、これまでも生きていたんだから。

 しかし、生きている者は必ず死ぬという当たり前に気がついていると、こうは言えないはずなのである。必ずというのは、必ずなのだから、それは先のことではない。何で死ぬかも関係ない。生きているまさにここに死は存在しているという根源の事実である。何が起きてもおかしくない。他人に起こり得た災難は、すべて自分にも起こり得ることだ。」



 確かに、今大地震が起きて家が崩れてもおかしくないし、今飛行機が上から落ちてきてもおかしくないですね。でも自分にそう簡単に起こりえないと思っている人が普通だから、池田さんは上のように書いておられるのでしょう。


 科学的な確率では大きな災難はそうみだりに起きないと思いますが、起きる可能性は確かに常にあります。

 確率の話をすると、よく宝くじの話題をするのですが、交通事故に遭遇する確率より、宝くじが当たる確率の方がかなり低いのです(『世間のウソ』新潮選書)。でも普通、人は交通事故には遭わないと思って道路を危なっかしく通行しつつ、宝くじは当たると思って買います。

 池田さんの仰る通り、人は生死についても同じように考えがちなのでしょう。



 ところで、災難といえばいつも気になっている良寛の言葉があります。

「災難に逢ふ時は災難に逢ふがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」

 テレビがなく、起こった災難は常に現前に繰り広げられる時代、災難に遭うときは遭い、死ぬ時は死ねば、他人の災難や他人の死を見て心を痛めることもない、というわけでしょうか。