哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『人類進化の700万年』(講談社現代新書)

2008-12-27 07:50:00 | 科学
 表題は最近購入した本だが、実は2005年に出版されていた。それでも比較的最近の知見がわかるのだろう。

 かつて立花隆氏は、人間とは何かを知りたければサル学を学べ、と書いておられたが、人類の歴史を知ると、本当にもっともだと思う。良く知られていることで、この本にも書かれていることだが、チンパンジーと現生人類とのDNAの違いはほんのわずかでしかないのだから。


 「言葉は命である」というその言葉がいつどのように生まれたのか、人類の歴史において興味のあるところだが、この本では、人類に抽象能力が開花した頃で、幾何学模様を刻み込んだ石が見つかった7万5千年前頃としている。現生人類の祖先は20万年前のアフリカから出発しているから、脳が大きくなっても言葉の獲得には結構時間がかかったようだ。

 しかし言葉を獲得したことで、人類の文化の伝承や発展ができるようになり、実際にそれは飛躍的に進化した。この本の中で、言葉を獲得したことに関する興味深い記述が2つ紹介されている。
 ひとつはチンパンジー研究者の話で、高度に洗練された音声言語機能が、人間と近縁の種からの区別で最も重要とし、「チンパンジーを観察していて、ときどき彼らは人間がもっているような言語をもちあわせていない故に、彼ら自身の中に囚われてしまっているのだなと思ったものだ」という。
 もうひとつは、遺跡発掘調査の大学教授で、「ネアンデルタール人の遺跡から現生人類の遺跡に調査地を移ると、人間らしさがプンプンしてなんとも楽しい」という。つまり、言語によって集団ごとに知識が蓄積されていくし、地域ごとに文化の違いも目立つようになるという。言語を獲得することで、物事の区別、時間の区別、集団の区別などが生まれたわけだ。


 かつて池田晶子さんは、「考え」が先にあったから脳が発達したのではないかと、池田さん“らしく”ない生物学的見解を書いておられたが、この場合「考え」は言語以前のものだろう。しかし、言語で伝達しなければ、その「考え」は人間同士でも共有できなかったことになる。


 さて、この本の後半では、DNAの突然変異による進化の過程が説明されている。突然変異の結果、環境適応した種だけが残ったという進化論の考え方で、当然現在残っている種は環境に適応した種だけだから、適応できなかった突然変異の痕跡は地球上にないことになる。想像できないくらい多くの突然変異が淘汰されてきたのだろう、としている。

 DNAは自らの複製を正確に保存し伝達する機能を強固に持ちながら、突然変異を許容する柔軟性も持っている。生物は、その性質において生存し続けようとし、しかし種を変異させつつ、種を保存し続けようとする。それはそれで理解できる気はするが、しかしそもそもいったい生物とは、何のために存在し、それを生み出した宇宙とは、何をどうしようとし、どこへ向かっているのだろうか。科学では決して答えられない問いを、どうしても思ってしまう。



『白川静』(平凡社新書)

2008-12-15 23:18:23 | 知識人
 2年前に96歳で亡くなられた有名な漢字学者の評伝であるが、著者自身(松岡正剛氏)、書くべき者が書いたという感慨と自負を表明している通り、白川静氏についての客観的評伝というよりも、白川静氏と松岡正剛氏と心身融合して書いたのではないかと思うくらい、松岡氏の思いがあふれ出ている本である。松岡流白川静伝なのである。しかし、それはそれでその思いに委ねて読んで、損はない内容だと思う。

 最初に漢字学者と書いたが、この本を読むと、決してその枠に留まらない研究者であったことがわかる。漢字の呪能の話にはじまり、漢字の語源的解明によって古代の中国や日本の民俗や世界観まで解明できるという。いわば文字以前に人が持っていた世界観を、漢字を基に知ることができるのだ。

 漢字に限らず、例えば万葉集の歌に関する解析でも「目から鱗」のような鋭さであることが触れられている。例として、万葉集の歌の「草摘み」や「標野」がかなり神聖な呪術的儀式を意味することが、わかりやすく説明されている。その他、詩経や孔子などについても白川静氏らしい解釈が挙げられている。松岡氏のこの本は白川静氏の入門書として結構お薦めである。

『人生は愉快だ』(毎日新聞社)

2008-12-13 19:55:50 | 哲学
 先月出た、池田晶子さんの新刊である。「死んでからでも本は出る」と帯にあるが、何か挑戦的なもの言いである。「人生は愉快だ」という題名はどうだろう。池田晶子さん自身が考えていた題名なのだろうか。

 この本は、未発表の文章と、雑誌掲載の既発表文章をまとめたものとなっている。メインは未発表の部分(第1章 死を問う人々)であるが、これは古今東西の哲人・賢人・宗教創始者たちの「死に関する考え方」を論じている。各々の文章はさすが池田さんらしく、全くスタンスのぶれない論考は、本当に気持ちがよいくらいだ。どこかの書評で、池田さんの晩年は自らの死を意識してか、死に関する文章が多くなっていると書いてあったが、ここまで死を徹底して取り上げていたとは、その考えにうなづかざるを得ない気がする。

 これに対して、雑誌の人生相談(第2章 生を問う人々)の池田さんの文章はほほえましい。なかには「そのまま突っ走ってみたら如何でしょう」と、池田さんの呆れた表情が浮かびそうなものまである。きっとこの人生相談の連載については、結構池田さんに困難さを感じさせたことだろう。

 さて、トランスビューの連載だった第3章は、以前にも読んだことがあるので、目新しくはないのだが、一つ池田さんらしくない文章がある。そもそも犬の話になると池田さんは“らしさ”が失われやすいのだが、2匹目の犬を飼うことにした文章には「次の犬が往生する時、私は六十になる」というくだりがある。これを初めて読んだとき、「死は今そこにある」といつも言っている池田さんも、60歳まで生きるつもりで考えることもあるんだな、と不思議な感じがしたものだ。もちろん決して批判しているつもりではなく、ちょっとしたご愛嬌と思っているが。