哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

マキアヴェッリ語録で

2009-07-19 11:15:00 | 時事
塩見さんもよく引用するカエサルの言葉があった。


「どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそものきっかけは立派なものであった」


これはあらゆる場面で念頭に置いておきたい言葉である。政治でもよくありうるし、日常の生活場面でもそうだ。CO2削減キャンペーンの愚かしさについても、養老孟司氏の本で同様の言い方をしていた(「地獄への道は正義と善意で敷き詰められている」)。

よかれと思ってやったことが、かえってあだになってしまうということは、歴史の中で繰り返されているわけである。自分も最近同様のことを仕事で体験し、身にしみた。


しかし、池田晶子さんなら何と言うであろうか。

「それが人生というものである。人生の明日が知れないのは当たり前である」(『勝っても負けても』より)と一蹴されるだろうか。

『マキアヴェッリ語録』(新潮文庫)

2009-07-05 10:03:09 | 時事
 塩野七生さんは、歴史に現れた人間の行為をもとに、人間とは何かを鋭く考察する。この本はマキアヴェッリの書いた内容の抜粋だから、塩野さん自身の考えかどうかはわからないが、それを好意的に取り上げていることから、その視点はある程度は共通するのだろう。


 国家や会社など、組織を率いる全ての指導者にとって、このマキアヴェッリの箴言は示唆に富む。その多くの言葉に共通する思想は、塩野さんの冒頭の文章にある通り、政治と倫理を明確に分けることにあるという。それは正しいか正しくないかではなく、選択の問題だと。組織の中には数多くの人間がおり、思慮深い者もいれば、そうでない者もいる。そのような組織において善政をなすには、悪の行使もためらってはいけない場面もあるというのだ。


 確かに歴史を見返して思うのは、多かれ少なかれ人間の愚行はいつの時代になってもなくならないということだ。戦争も古代から現代まで決してなくなることはなかったし、未来においてもそうだろう。戦争を悪とする見方は多くの人が持つが、しかしこれからも戦争がなくなることはないといえそうだ。そして政治に必要なのは、その悪をいかに最小限に抑えるかである。


 一方で、池田晶子さんの言う通り「何者でもない同士、いかなる理由で殺しあうのか」とか「善く生きることこそ価値である」という考えもあまりにも当然のことである。果たして、生来人間に宿る善と悪について、全ての人間が思慮深く善のみを尊重するような時代がくるのであろうか。池田さんは決して望みを捨てていなかったと思うが、しかしやはり人類にとって困難な道に違いない。


 マキアヴェッリの書いた通り、たいていの人間はどうしても私利私欲に走り勝ちなのだ。だからこそ少なくとも政治においては、倫理と分けて対応する必要があるわけだ。このことはマキアヴェッリの生きた時代と現代も変わらないということだろう。
 

『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫)

2009-07-01 04:08:30 | 
 今年は塩野七生さんのルネサンス著作集が文庫化されていくという。表題の本はその最初らしいが、面白いことに本文が全て会話形式で書かれている。


 ルネサンスは文芸復興と訳され、中世のキリスト教下での暗闇の時代から価値観が大きく変遷し、古代のギリシャ・ローマ時代の人間性を見直すことによって、新たな歴史が展開した時代だ。

 塩野さんは、ルネサンスは素朴な「なぜ?」を問うことによって発展したという。それまでのキリスト教の時代は信じることが求められ、必ずしも「なぜ?」と問うことはできなかったからだ。「なぜ?」と問うことは哲学の原点でもあるし、科学の発展の原点でもある。塩野さんはルネサンスの遺産の一つとして、自分の眼で見、自分の頭で考えることがあるという。

 また人間をどうとらえるかという観点からは、一神教が善と悪との二元論であるのに対し、多神教は神一人一人でさえも善と悪を同時に持つ一元論だという点も、ルネサンスの遺産として重要だと塩野さんはいう。一人の人間が善と悪の両方を併せ持つからこそ、いかに善を多く行って生きるようにするかという、ソクラテスの教えが妥当してくると。


 塩野さんはイタリアに在住して、壮大な歴史を等身大に表現していく点が大変凄いと賞賛されているが、上に紹介した内容は、まさに池田さんのよく書いていることに通ずると思う。池田晶子ファンにはお薦めの本である。