哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『塩狩峠』(新潮文庫)

2011-08-27 19:33:33 | 
 つい最近、北海道へ行く船の中でこの小説を読んだ。この小説の主人公も船で北海道へ渡っており、ささやかな偶然の一致に不思議な気分であった。この小説は実話をもとにしていて、塩狩峠も北海道にあるという。


 この古い小説を読むきっかけは、文藝春秋誌(五月号)で佐藤優氏が「自己犠牲」(「命を捧げる気構え」)をテーマにしてこの小説を紹介していたからだ。この小説自体はキリスト教関連の機関紙のようなものに連載されたそうで、キリスト教に関する啓蒙的な内容も多く触れられているが、佐藤氏は必ずしもキリスト教にかぎらず、仏でも八百万の神々でもよいとし、「外部にある超越的な力に対して畏敬の念を持つことが重要」としている。この、超越的な力を認める考え方は、決して池田晶子さんと相容れないものではないだろう。


 その点については、池田晶子さんの文章を引用しておこう。

「自分を超えたものを認めるということは、本当に大事なことである。それのみが、我々の人生を豊かにする。認めるためには、特別な修行も勉強も要らない。万物が存在していることに不思議に、気がつくだけでいいのである。」(『41歳からの哲学』「なんと自在でいい加減-神道」より)




 佐藤氏の上記紹介の文章の最後の方では、「生命至上主義では、三月十一日の東日本大震災以後の状況の中で、日本国家と日本人が生き残っていくことができない。」として、日本国家と日本人のために、命を捨てる気構えのある新しい日本人が形成され始めているとしている。

 こちらの言い方は、決して池田晶子さんと相容れるとはいえない。国家や民族のために命を捨てるというのが本末転倒であることは、繰り返し池田さんが指摘していることだからだ。池田さんももちろん生命至上主義ではない。生きることが重要なのではなく、よく生きることが重要であり、つまりただ「生きる」ことよりも「よく(善)」が重要と考えるのである。だから、池田さんなら『塩狩峠』をそのような考え方において捉えたことだろう。

日めくり池田晶子 45

2011-08-20 00:15:00 | 哲学
 今回は私=自分とは何かについて、根本的な疑問の、スタート地点の言葉である。池田晶子さんの著作をあまり読んだことのなかった人は、最初一体何を言っているのかわからなかったのではなかろうか。しかし、この根源的な疑問を疑問と思わなければ、池田晶子さんのいう哲学のスタート地点には立てない。



45 あなたが「私」と言うときのその「私」を指示してみてほしい。どのって、このですよ、と鼻の頭を指す以外の仕方で、示してみてほしい。


 人の世のいざこざとは、だいたいにおいて自己主張のぶつかり合いであることは、認めますよね。でも、ーどの自己? どの自己のことを人は、他人を蹴飛ばしてでも主張したいほど確実な自己であると信じているのか。
 「私は」「私は」と、声高に主張し合う人々もじつは、主張している「私」の何であるかを、鼻の頭を指す以上の確実さで知っているわけではないのである。(『残酷人生論』「「私」とは何か」より)

『日本語教室』(新潮新書)

2011-08-14 19:38:00 | 
 井上ひさし氏の講演を新書にした本である。かなり軽い内容で、話し言葉なので分量も多くないが、なかなか面白い内容であった。

 とくに意外だったのは、母語として日本語を話す人は、無意識のうちに、漢語とやまとことばとを使い分けているというところだ。

 実際に学生に、一から十まで数を数えさせた上で、それを今度は逆に言わせてみる。そうすると、上っていくときに七は「シチ」と数えたのに、下がるときは「ナナ」と無意識に言ったのだ。四も同じようなことが起こる。ためしに自分で数えてみても同じだった。

 さらに井上氏は、芝居の台詞もやまとことばにしないといけないといい、漢語だと観客の理解が一瞬遅れるという。そういわれると確かにそうかも知れない。言葉は確かに話し言葉から習得するのだから、日常で最も基本に話している言葉がやまとことばであるのであれば、その通りであろう。

 言葉というものが、人間にとってどういうものか、少し考えさせてくれる本である。また言葉だけでなく、少し物事の見方的な見解も示したりしているが、池田晶子ファンとしてはそれほど違和感は感じなかった。

日めくり池田晶子 44

2011-08-07 10:21:00 | 哲学
サンデルブームのおかげで、入門的哲学書が随分出版されている。たいていのそのような本には、ソクラテスのことは紹介されている。その紹介された内容は、池田晶子さんに言わせるとどうなるであろうか、という観点からつい立ち読みをしてしまう。ソクラテスの話題は、当然ながら池田晶子さんの本にはよく出てくるし、そのソクラテスの言葉として「無知の知」は最も有名な言葉である。



44  「無知の知」、あれは、人類の認識の上がりではなく、常なる振り出しなのだ


わからないものに直面して、人は、驚きこそすれ、安心する道理はないはずではないのか。「わからない」と「わかる」からこそ、人はそれを「知ろう」と努力するのであり、わからないことさえもわからなければ、人が知ろうとして考えるなど、あり得るはずがないではないか。(『残酷人生論』「「わからない」から考える」より)