哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

図書館利用の勧め

2012-06-26 02:29:30 | 
webで本を簡単に買えても、本屋で未知の書籍に出会う楽しみは捨てがたい。それに、何か調べ物をする時に、webでかなり情報が集められるにしても、行政で作成された刊行物など、得難い資料が図書館にあったりする。

おかげで最近少し図書館を利用するようになってきた。転居のたびに大量の本を梱包移動するのが大変でもあるし、話題になった本は一度読むと二度と読まないことも多い。図書館には必ずしも欲しい本があるわけではないが、意外と揃っている分野もある。


ところで、買った本を読んだ後、古本買い入れの全国チェーンに売る人も世間では多いようだ。私もかつて何回か利用したことはあるが、基本的にそこに本を売るのはあまり好きでない。単純に言って、本の値付けがあまりにも乱暴な気がするのだ。リサイクルだから安く引き取って当然という考えなのだろうか。

ある日にちょっとそういう店を覗いてみたところ、本を売りに来た人が居て、店員が言うには「10数冊(正確な冊数は記憶していない)で95円です。いかがされますか。」と。1冊あたり5~10円の値付けのようなのだが、元値はもちろん100~500倍しそうな本ばかりである。売る方は捨てるよりはまし、買う方はリサイクルという大義名分もあるのだろうが、ガソリン代くらいにしかならないような、引き取り額のあまりの安さは、儲けさせるビジネスモデルにまんまと乗せられているような気がどうしてもする。

そこで買った本をまたそこで売るようにも勧めているようであるが、何となく所有権が移転する貸本のようだ(言葉上矛盾しているが)。であれば、無料の貸本である図書館を使わない手はない。図書館の難点は公営だから、予算内で買う本が限られており、最新刊ほど読みたい本がなかなか手に入らない点であろうか。逆に言えばブームを少しすぎた人気書籍なら比較的入手しやすい。

公立図書館を使うようになって積ん読が少し減ってきた。基本的に貸出期限内で読み終えるか、つまらなければ途中で読まずに返すからだ。本屋で手にとって気に入っても、入手してじっくり読み出すとあまり面白く読み進めないこともよくある。貸出なら気軽に借りて読めるからよい。

オウム真理教信者の逮捕

2012-06-19 03:53:35 | 時事
 サリン事件で指名手配されていたオウム真理教信者が相次いで逮捕された。十何年も偽名で隠れて生活するというのは想像を絶するが、最後につかまった男性はいまだに麻原彰晃やオウム真理教を信じているというからなおさら驚く。報道で、久しぶりに麻原彰晃が宙に浮いているという写真も見たが、またもやテレビキャスターの人は、汗をかいているから一瞬飛び上がっただけで神秘なことではない、とか説明していた。


 ご存じのとおり、池田晶子さんVSオウム真理教も因縁深いところがあり、何度も書いているが、神秘体験とかについて書かれているところを引用する。


「最も当たり前のことこそが、最もわからないことなのだと気がつけば、超常現象なんてものは、存在しなくなるのである。「わからない」すなわち神秘、日常こそが、神秘である。世界が在ること、自分であること、そいつが生きて、そして死ぬこと、これら当たり前のことの全てが、驚くべき神秘の出来事である。日々刻々、この驚くべき神秘を体験しているというのに、なんでわざわざ別の所へ、神秘を体験しに行く必要があろう。空を飛んだのオバケを見たのなんてのは、この絶対的神秘に比べれば、オマケみたいなもんである。そんなことは、あってもなくても、どっちでもいいのである。オバケの存在に驚く前に、自分の存在に十分に驚いているものだろうか。」(『41歳からの哲学』「当たり前とは何であるか-再び宗教」より)



 偽名で隠れ続ける「自分」というものを、逮捕された彼はどう考えていたのだろうか。いまだに「信じている」という、その精神状況を想像することは不可能だが、十何年間逃げ続けながら、そのような信仰に関する考えが一切変わらなったということは、やはり思考停止をしたままなのかもしれない。


『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫)

2012-06-11 01:59:00 | 時事
 NHK大河ドラマ「平清盛」を毎週見ているからかわからないが、日本の古代史に興味をもち、たまたま書店のフェアーで棚に並んでいた表題の本を読んでみた。

 かつて学校で日本史を学んだ頃には、どうしても日本民族を中心に考えて、周辺国をとらえてしまいがちだった。それでも、文物や技術は先進である大陸から入ったことは間違いないこととして学ぶ。しかし、学校でははっきりと学ばなかったと思うが、大和朝廷以前の日本においては、文化も技術も先進である朝鮮からの渡来人が支配者層(当然皇室も含む)を形成したようである。したがって、大和朝廷も渡来人系が中心となっていることも容易に想像できる。そもそも奈良という言葉も、朝鮮語で国の意味だ。

 表題の本によっても、弥生時代に稲作が入ってきた頃から、渡来人が多く現在の日本の地に来ており、とくに飛鳥の地などかつて都のあった場所は、ほとんど渡来人系で占めていたという。飛鳥の風景は、現在散策してものどかなイメージであるが、実は韓国での古くからの土地とかなり雰囲気が似てるという。

 表題の本のメインテーマは、大化の改新と壬申の乱が、当時の古代朝鮮半島の国々の争いが古代日本における渡来人系の支配層における争いに反映したものとする点だ。土着の日本民族を優位に置く皇国史観によって歴史が捻じ曲げられているとして、その修正を迫る内容である。日本を単一民族と考える人は少なくなっているとは思うが、イデオロギー的にそう捉えようとする人は、この本の冒頭を読んだだけで嫌悪感を感じるかもしれない。しかし、素直な、公平な感性でぜひ読むべきであろう本である。むしろ現在の政治家や学者で、朝鮮半島や中国に対して日本民族の優位を声高に叫ぶ右系の人も、先祖をたどれば優秀な渡来人系かもしれない。日本と朝鮮あるいは中国も含めて、地理的に近いのだから、民族的には対立性よりも親近性が高くて当たり前である。所詮人類史をたどれば、すべての民族の生成以前はエチオピア辺りの人類発祥の地の血を受け継いでいるのであれば、民族対立を殊更にあおることはない。


 話は戻って、この本によれば極端な話かもしれないが、現在の皇室につながる古代の支配層はもちろん、平安時代の貴族やその後に台頭した武士も、また昔は学問修得が主であった僧たちも、かつて先進文化や技術を持ってやってきた渡来人系が中心となっているということだ。ただ、言葉として日本古来のやまとことばというものも存在するから、縄文時代からの土着の民たち(これを日本民族としてもあまり意味はないが)も、被支配層として多くの人口がすでに存在したのであろう。古代におけるグローバルな交流を想像しながら歴史を学び、ぜひ現代の国際交流にも生かしたいものだ。



『反・幸福論』(新潮新書)

2012-06-04 22:06:00 | 
 著者の佐伯啓思氏の文章はこれまでも時々読んだことがあり、そんなに悪い印象はなかったのだが、この本についての読後感はあまり印象はよくなかった。読んでみて、雑誌の連載をまとめたからかわからないが、言いたいことがちょっとわかりにくく感じたのだ。

 例えば、トルストイが『人生論』で正しいとする人生観に、著者は必ずしも賛成せず、そのトルストイの人生観に対峙させるかのように、福沢諭吉の人間蛆虫論というものを取り上げる。ところが、その章の最後では福沢諭吉とトルストイの謂いが共通するとしているように終わっている。著者自身の思考の流れを追っているのかもしれないが、結局どう考えているかがわかりにくい。


そもそも「反・幸福」とはどういうことか。あとがきには、幸福でなければならないというこの時代の精神に多少あらがってみたいとあるが、その少しあとの文章では、不幸をそのものとして受け止めて心の安らぎを得ることを、日本人の価値観の奥底だとしている。なぜ、心の安らぎを得ることは、幸福ではないのだろうか。この本の冒頭には、幸福度の世界ランキングの話もあり、著者は、物質的豊かさや自由、権利を追うことを幸福と考えることに対して、「反・幸福」と称しているようである。


 それでも、サンデルや尖閣など、チャレンジングな話題を取り上げており、考える材料としての話題群は面白い。もし、池田晶子さんが雑誌の連載を続けていたら、これらの話題をどう料理しただろうか、と思いを巡らせることができる。