哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

夏休みの宿題はもうすませた?

2011-01-30 01:55:55 | 時事
昨年のビジネス書のベストセラー本である『競争と公平感』(中公新書)を読んでみた。市場での競争の結果、多くの人にとって収入に差が出ても「公平」に感じるかどうかは、公正なルールが設定されているかどうかや、失敗しても救済されるセーフティネットの整備にあるというのが、大まかな話しの流れであった。たとえ競争で負け組がでても、国民全体で幸福度合いが高まるとして、経済学者らしく市場経済の優位性を強調する。しかし、その仕組みづくりは政治に委ねられ、かつ政治は高齢者の投票率が高いため、いびつな結果になりやすいことも指摘されている。

面白いと思ったのは、真ん中あたりで紹介されている表題の話しで、夏休みの宿題を後回しにした人ほど、消費者金融で借り入れて債務整理になった人や、肥満になる人が多いという調査結果があるそうだ。人は将来のことよりも身近な消費の方を優先しやすい傾向があり、時間割引率が高いという考え方で説明されている。時間割引率が高い人ほど後で後悔するという。

このような傾向が一般的に多く見られるからこそ、クレジットカードの利用限度額や、定期預金や、年金制度があり、時間的に非合理な行動に対して強制的な制限を加えているという。そうでもしないと、人は目先の欲に目がくらみ、将来のことをかんがえずに消費してしまいやすいからだ。



しかし、ここからは私見だが、その肝心な国家制度としての年金の仕組みをよくよく考えてみると、現在の年金保険料は将来の積立に回っているのではなく、現在の受給者に対して払われているのだから、まさに年金制度自体が将来のためではなく、現実の消費に回されているのが実態だ。さらには国の債務残高の過剰で日本国債が格下げになるという報道が最近あったが、国債という将来の世代からの借金も膨大であり、返済不能になりかねないのだから、まるで日本国自体が夏休みの宿題を後回しにする傾向の国家であるともいえることになる。

非合理な行動から国民を救うはずの制度や政府自体の政策が非合理だったということは、将来において国民みんなで後悔するしかないという痛烈な皮肉なのだろうか。


ただそうはいっても、池田晶子さんに言わせれば、人生は先のことはわからない、だからどうした?と一蹴されるだけだろう。


「国民年金というあれも、何ですか。どういったものなのか、全く認識していないのだが、老後の心配を、国がしてくれるということなんですか。私はちっとも心配していないのですけど、それでも払わなくちゃいけないんですか。」(『41歳からの哲学』「先のことはわからない。だからどうした?ー生命保険」より)


 もちろん先のことはわからないから、今消費してしまえ、ということでは当然ないのであるが。

『妻に捧げた1778話』(新潮新書)

2011-01-22 17:30:00 | 時事
 映画化されて公開されたというテレビ番組を見て、早速原作を読んでみようと思い立って入手したのが表題の本であった。著者の眉村卓氏が実際に書いた短編は単行本にもなっているようだが、この本でも少しだけ紹介されている。


 1日1編のショートショートを書き続けるというのは、まるでお百度のようだと著者自身も書いているが、その通りであろう。人のために自分にできることはないか、と考えての行為だが、お百度と同様その行為によって直接何かの効果があるわけではない。その人のためにその行為を行いたいという、その思いの表現である。


 そもそも笑うことによって免疫力が上がるという話を聞いて、「笑える」という要素を条件に入れてショートショートを書いたそうだが、この本で読む限りは正直笑えるものはあまりなかった。感動的ストーリーと認識しつつ読むのだから、なおさら読む方にも気持ちに笑う余裕がないのかもしれない。


 ところで、笑うことが体にいいという話は、池田晶子さんも批判的に取り上げたことがある。


「笑うことは体によいと、世に広く喧伝されることになると、どうなるか。まず間違いなく人は、「笑わなければいけない」と思うようになる。体によいのだから笑わなければ、と。つまり、笑うことが義務になる。・・・笑いというのは、既成の予定調和的世界を踏み越えてゆく至上の快感なのである。なのに、愚かなり人類は、その快感を、たかがこの世の効用のために、みすみす手放そうというのである。」(『勝っても負けても』「笑えば健康」より)


 確かに健康のためではなく、単におかしいから笑うだけである。健康のために一生懸命笑おうとか、おかしくなくても笑うと健康にいいなどとなってくると、そういう行為自体果たして健康的なのだろうか、と疑問に思えてくる。

資本の団結

2011-01-09 02:44:00 | 時事
 ちょうど前回の卯年の正月に書かれた池田晶子さんの文章に面白いフレーズがあった。



「人々が「絶望的」と言っている内実の主たるものは、やはり、「金融」と「経済」のことなのだろう。私は、この領域にまるきり不案内なので、いかなる理由によってそれがそうなるのかをよく把握していないが、銀行が潰れ、失業者が増え、という街中の成り行きを見るだけでも、やはりこれは大変なことなのだろうということはわかる。
「万国の労働者は団結しなかったけど、万国の金は団結しちゃったんだよねえ」
とは、知人の言である。この人、証券会社の元会長さん」(『考える日々Ⅱ』「団結したのは資本であった」より。以下引用文も同じ)




 確かに思い起こすとこの頃は大変であったはずであるが、さらにこの後日本も世界ももっと大変なことになったのは周知のとおりである。同時多発テロから局地戦争へ、またリーマンショックによる世界的な不況、国家財政の破綻の危機にある国々など。一方で新興国による経済成長もあるとはいえ、世界的には不安定な状況に変わりはない。しかもアメリカでも日本でも政治上の大きな変化があり、期待と失望の落差が影を投げかけている。


 池田さんがよく書いている世界的な「一連托生」的事態は、インターネットやらでより強固になっているように思えるが、結局人間の側はもとから何も変っていないという指摘は至極真っ当に思う。「いくら世界が機械化と情報化をきわめたところで、人間の条件は、何ひとつ変わってはいないのである。」という池田さんの言葉は、確かに全くその通りであることに、今更ながら驚く。

 人間の側が変わりようがないだけでなく、直面している事態も変化はしたものの、大して変わりはない事態であることに更に驚く。いやむしろ悪化したとすれば、一体12年間人類は何をしてきたのだろうかということになるのだろう。なにせ、上に引用した12年前の池田さんの文章がそのまま現在を表現していたとしてもちっともおかしくないのだから。

 「人間は、何のために、何をしているのだろうか」という池田さんの言葉を改めて自省したい。