哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

日めくり池田晶子 40

2011-06-25 00:18:18 | 哲学
 今回は以前の日めくり池田晶子4と同じ内容であり、同5のすぐ前に位置する文章である。ちょっと独立して取り上げにくい文章であったのだが、何と言っても池田晶子さんらしい倒錯表現の代表例といえるので、あえて取り上げた。




40 戦争という最も観念的な出来事においてこそ、かくまで現実的なことを言うことに意味があるのだ


 池田某が日本人であるのであって、「私」が日本人であるのではない。「私」は、どの国家どの民族にも属さない。絶対自由の唯一者である。(戦争という現実的な出来事においても そんな観念的なこと言ってられるかどうか)むろん言えます、当たり前です。そうでなければ、どうしてわざわざこんな妙なこと言い出したりするものですか。(『残酷人生論』「アイデンティティーの錯覚」より)

上野千鶴子氏

2011-06-18 01:40:40 | 知識人
 たまたまNHKをつけたら、爆笑問題の二人が上野千鶴子氏とメイド喫茶(秋葉原の?)で議論をする番組をしていた。例の、爆笑問題がいろんな分野の学者に話を聞く番組の一つかと思うが、上野氏のいろんな発言に対して、太田氏が随分暴言的反論を放っていたようだ。意外と上野氏が古臭い固定観念のもとで主張しているように見え、一方で太田氏は過激な主張を行っているようであった。例えば、

上野氏「インターネットでは共感は得られない」
太田氏「インターネットでも共感は得られる!」

上野氏「笑いにもルールはある。人との違いを笑うことはルール違反だ」
太田氏「人との違いを笑うのは笑いの基本!ルールなんかない。ただやってみた聴衆の反応で修正することはある」

 以上はうろ覚えなので、正確ではないと思うが、こんな調子であった。


 上野千鶴子氏に関して、池田晶子さんも何か書いていたと思ったが、名前を明示した文章は見つけられなかった。ただ、関連する本についての話があったので紹介しよう。確か、あるタレントが上野氏に議論の仕方(喧嘩)を学ぶというものであった。



「高名なフェミニズムの理論家に喧嘩の仕方を教わるという本が、ちょっと前に評判だったそうだ。なんでも、突込まれると、「何が悪い」と居直るのが、その極意なのだという。
「何が悪い」の、まさにその「善悪」を論じ合うのが言論活動であるということを、この人たちは知らない。互いの主張のどこが悪く、どこが善いのか、どう正しく、どう正しくないのか、論じ合うことにより最も正しいと思われる考えを全員で手に入れる。このような一連を言論活動と呼ぶのであって、自身の主張を我で張り通すことではない。それなら、自らそう言っている通り、ただの「喧嘩」であろう。」(『考える日々Ⅲ』「主張のない人は考える人だ」より)


 この「フェミニズムの理論家」が、上野千鶴子氏のことだったと思う。池田さんは、フェミニズムとかのイデオロギー的思想をとことん嫌う。一定の主張があったとしたら、それが誰にとっても正しいか否かを議論し、考えるだけなのである。

 上野氏と池田氏の議論がもし実際にあったら、どうなったであろうか。見てみたい気もするが、おそらく議論が噛み合いそうもない気がする。


日めくり池田晶子 39

2011-06-11 07:35:35 | 哲学
 今回はまた、生と死に関する内容だ。かつて養老孟司氏が、世間の人が来年も生きていることをつゆも疑わないでいることを、不思議そうに語った文章を読んだことがあるが、池田晶子さんもその点においては、全く同じ考えである。



39 生が善なのは、善く生きるから善なのであり、死が悪なのは、善く生きていないから悪なのだ


 がんを告知するか否か、告知されたいのか否かが、多くの人にとっては大問題であり得るということが、以前から私には不思議だった。告知されたからといって、いったい何が変わるというのだ。自分が死ぬのを知らないわけじゃあるまいし。がんにならなきゃ死なないみたいな。多くの人は、どうもそうではないらしいということを、次第に理解したときの驚きと幻滅。へぇ、普通は人は、自分だけは死なないと思っているものなのか。
 なぜ生は善であり、死は悪なのか。この問いは、しかし、誰か他人に考えてもらっても、なんら答えにはならない。各人が各人で納得するまで考えるしか、しようがない。
もしも、絶対的な「合意」、医者も患者もその家族も、いかなる異論もなく幸福であることを求めるなら、各人が各人で、生存それ自体が善なのではなく善く生きることだけが善なのだという、人類普遍のあの真理に気がつく場合でしかあり得ない。(『考える日々』「がん論争に欠落しているもの」より)

『競争の作法』(ちくま新書)

2011-06-05 00:23:00 | 
 表題の書は、以前紹介した『競争と公平感』と昨年同時期に、経済書として話題になった本である。各書の著者は同世代と言っていいくらい近い年齢層で、2人とも経済学者らしく市場に対する信頼感が大変強い。

 読んでみた印象としては、以前紹介した本よりも、表題の本の方が扱う事象を絞っていて(失われた10年と戦後最長の景気回復が主)、かつ主張したいことが明確かつラディカルである(労働生産性を2割上げるか、労働コスト=賃金を2割下げるか)。そのラディカルな分だけ、『競争と公平感』に比較して少し推薦される度合いが低いようだ。

 「競争の作法」の意味は、最後まで読んで分かるようになっていて、端的にいえば、同じ土俵で競争して負けたのであれば、「負け」をきちんと認め、給料ダウンなどの結果を潔く受け入れるべきだということを言っているようだ。なぜならば、現在の日本社会においては、既得権益が保護されてしまい、公正な競争上の結果が必ずしも反映されていない常態が形成されてしまっているという問題意識があるからだ。

 この本の筆者のメッセージは、エピローグで端的に3つにまとめられている。①一人一人が真正面から競争と向き合う、②株主や地主など持てる者が当然の責任を果たす、③非効率な生産現場に塩漬けされている資本や労働を解放す、の3つである。


 意外であったのは、この本の最後の方に中島敦の「山月記」が出てきたことだ。「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」というキーワードは、高校の教科書で読んで以来、何度も反芻しつつも、未だになかなか本質に迫る理解を得たとは思えていない。ここでの筆者の謂いは、「競争を正視するとは、自身の内なる虎に克ち、他者を尊重することにある」というものだ。

 さらに筆者は坂口安吾の『堕落論』も引用したうえで、競争原理について、善悪で考えた倫理で葬り去るのではなく、美学と道徳で守りきるべきと結ぶ。

 ここで善悪を持ち出されてしまうと、池田晶子ファンとしては、市場競争原理という損得で考える経済システムと、善悪で考える倫理とは関係ない、ということになるのだろうが、それでも社会のあり方について有益な示唆に富む一冊である。