哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

塩野七生さんの「日本人へ」77

2009-09-20 20:08:08 | 知識人
今回の「日本人へ」は、八月十五日に考えたこと、であった。

塩野さんが力説していたのは、日本は今後二度と負け戦はしないようにしなければならない、ということであった。そのためにはまず、自分の国は自分で守るようにしなければならないと。イラクでわかる通り、アメリカが日本を守るために若者の命をかけてまですることは考えにくいからだ。そして、負け戦に巻き込まれないようにするため、日本は外交戦略で孤立化しないように注意していかなければならないと。そのために自国のことは自国で解決できるようにしなければ、国際政治ではまともに相手にされないという。

今回の内容は、塩野さんの書いたものと分かっていなければ、まるで右翼系新聞の社説を読んでいるような気にならないでもないが、あの塩野さんの書いていることだから、深い洞察のうえであろう。

池田さんが観念であると指摘する「国家」であるが、国際間では一定の集合体として、一人格のように振舞い、お互いの暴力を牽制するかのようだ。国際間の暴力をある程度抑えていくには、国連を国家の集合体として機能させて活用することが、自国民のみならず他国民をも決して犠牲にしない最善の方法なのだろう。

池田さんはこうも言っている。戦争の時代にあれば、戦争の時代を生きるしかないのだと。世界をみれば、未だ現代も戦争の時代といえるのかもしれない。

「Mr.&Mrs.スミス」(映画)

2009-09-14 22:22:55 | 時事
先日たまたまチャンネルを変えた民放で、恋愛映画の特集をしていて、表題の映画について、真面目なのかお笑いなのかどっちなんでしょうね、と香取君が言っていた。

これはお笑いに決まっているではないか。夫婦喧嘩を戦争にしてみようというコメディなのだ。夫婦喧嘩は結局元のさやに納まることがわかっている争いだ(映画でももちろんそうなる)。これは言い換えれば、世界で行われている戦争こそ壮大な夫婦喧嘩ではないか、とパロっているといえる。

想像してみてほしい。人類は地球から外へ出て暮らし続けることはできない。地球上の人類は、決して別れることができない同居人同士なのだ。宇宙から見れば地球上で繰り返される戦争は、壮大な内輪もめに過ぎない。

OBになっても死ぬわけじゃない

2009-09-13 21:56:56 | 時事
表題は先日も優勝した高校生ゴルファー石川遼君の言葉だ。この言葉で自分を奮い立たせたそうだ。
もはや何勝もしている石川君については、天才好きな池田晶子さんも、たぶん天才のうちに入れてくれるだろう。

ところで、表題の言葉には死に対する恐れが明らかに前提になっているが、死について池田さんに言わせれば、死は無い、存在しない死を恐れるのはおかしい、ということになる。

一方で人間の身体は、寿命以外の場面では生き続けようとする明確な構造をしている。おぼれたときには助かる方法を探すため過去の記憶を走馬灯のように思い出すとか、動脈は身体の奥に位置してダメージを避けるとか、体温が下がったときは血液の循環を身体の中心部に集めて手足は犠牲にするとか、身体のあらゆる構造が生存を続けようとする構造をしている。

精神は死を知らないが、身体は死を知っている。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)

2009-09-05 12:34:56 | 
あの姜尚中氏が薦めている表題の本は、はるか昔の学生時代くらいに一度読んだきりでほとんど覚えていなかったから、今回再度一通り読んでみた。

姜尚中氏は、ある新聞でこの本の凄さを「近代資本主義の起源を論じながら、その行く末を、ある意味ではマルクスよりもシビアに見据えていることである」としている。「もはや勝利を遂げた資本主義的営利は、・・まるでスポーツかゲームのような性格しか持ちえなくなっている」というのだ。

表題の本の大まかな流れは、キリスト教的な禁欲の精神が、まさに神の意思を具現するものとして、仕事に励む職業倫理となり、低賃金でも懸命に働く大衆と、営利に励む資本家を作っていったというものだ。所々にユダヤ人が経済的に成功している訳に触れられている部分も納得感がある。

そして姜氏が指摘している資本主義の行く末については、最後の方に出てくる。


「今日営利のもっとも自由な地方であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味をとりさられているために、純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果スポーツの性格をおびる・・。・・この巨大な発展がおわるときには、まったく新しい預言者たちが現れるのか、或いはかつての思想や理想の力強い復活がおこるのか、それとも、一種異常な尊大さでもって粉飾された機械的化石化がおこるのか、それはまだ誰にもわからない。それはそれとして、こうした文化発展の「最後の人々」にとっては、次の言葉が真理となるであろう。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた、と自惚れるのだ」と。」(旧版・下巻より)


まったく姜氏のいう通り、卓越した予見ではないか。


池田晶子さんも同じようなことをこう書いている。

「何のために金を儲けるのかというと、金を儲けるために、金を儲ける。金を儲けるという以外に、金を儲ける動機も目的も存在しない。完全に金儲けのための人生である。人生以外のところに人生の目的が存在する人生である。・・「何のための人生か」。考えずに生きられる人生は、善い人生ではあり得ない。」(『知ることより考えること』より)