哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

混浴の温泉場(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-02-26 06:38:15 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「混浴の温泉場」という題でした。池田さんは温泉好きなのだそうですが、表題の温泉の話の部分は池田さんの好き嫌いの話が中心のようですので、その前段のところを紹介します。



「例年になく暖かいこの冬も、あと1年経てば、その「例年」に組み込まれてゆくのだ。人は、「例年」の異常さに慣れてゆく、慣らされてゆくのだから、例年も平年もじつは作為的なものであるとニベもなく言うことはできる。異常気象などじつは存在しないのだと。あるいは逆に、すべては言葉なのだと言うことができる。」



 確かに池田さんのいう通り、どんな異常気象も過去の事例になった段階で「例年」に組み込まれていくはずですよね。ただ「例年」の定義は、気象関係者のルール作り次第ですから、一定範囲を超えた異常値ははずすという操作も可能でしょうが、まあそんなことはどうでもいいのでしょう。


 異常気象など存在しないのだ、とはさずが池田さんらしい表現です。どんな「異常気象」も経験された途端に、過去の事例の一つとして、経験の範囲の内に認識され、その後は「異常」にはならないはずですから。


 最後の、すべては言葉なのだ、というのは、過去の事実は存在しないのですから、それはすべて言葉のうえでしかないことを言っています。私たちは過去の厳然たる事実をあたかも客観的な存在のように思ったりしますが、よく考えてみると過去の事実はすべて記録・記憶による言葉のうえでしかありません。人は常に今現在をしか生きていないわけですね。

 だから人間は言葉としての過去に学ぶこともできますが、言葉に過ぎない過去と決別することもできるわけです。

広告きらい(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-02-19 04:40:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「広告きらい」という題でした。こういう話題は、どうしても中島義道さんを思い出します。哲学者は一般的にこういうことに鋭敏なのでしょうか。



「人は、巷に氾濫しているこの「広告」というヤツ、その厚かましさが平気なのだろうか。
 たとえ短い間であれ、その広告を見せられる、読まされるその間、間違いなく意識はその広告に占拠されている。そしてその広告の商品というものも、改めて考えてみれば、本来自分には何の関係もないものである。
 いかなる関係にもない物品に、いきなり関係づけられて、それを意識させられる時間というのは、私の人生の本来にとって、無駄な時間である。
 非本質的なことに関係づけられて、切れ切れに存在する意識というのは、積み重なればけっこうになる。買え買えと耳元で連呼されても平気な鈍感さは、人生を売り渡しているに等しいと感じる。」



 商業広告の存在する環境は、自由経済社会の原理に慣れきった私たちにとっては、結構当たり前となってしまっています。広告によって新しい商品を知ったり、便利さの享受可能性を知ったり、結構役に立つ場合もあると感じているのが普通でしょう。

 しかし池田さんに言わせると、そもそも新しい商品を広告で知る必要もないし、今の生活をさらに便利にしようと思ってもいない、広告なんぞ無意味の極み、ということになるのでしょう。

 しかも池田さんは、広告を意識させられる時間が、人生の本来にとって無駄な時間である、という言い方までしています。意識=精神=考えることを、安易に使ってしまわないという日常の強い姿勢が伺われます。


 無駄な時間という言い方は、自由経済社会の原理に慣れきった私たちにとっては、費用対効果の意味で捉えがちです。つまり時間というコストを使って、どの程度の満足度を得るか、ということですね。例えば、広告を10分見てしまうより、10分読書をした方がいいとか、休みの日に何をして過ごしたら有益だとか、時間をコストとしてその比較で有益性を考えがちです。

 ところが池田さんが言っているのは、時間そのものをどう使うかというよりも、人生そのものが一回限りの有限なものなので、意識=精神=考えること自体が時間的に人生の有限性に拘束されている。だから、広告を見るとかの無駄な意識作用を避けないと、一回限りの人生で本質的なことを考える時間がどんどん少なくなるということでしょう。

 池田さんにとっては、考えること自体が絶対的有限な資源である、と言い方が適切なのかもしれませんが、「資源」なんて言ってしまうとまたもや経済原理的でいけませんね。

閣僚の問題発言(週刊新潮今週号「人間自身」)

2007-02-12 01:35:45 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「閣僚の問題発言」という題でした。また果敢に時事に斬り込んでおられます。



「我々が政治家に求めるのは、個人の本音ではなくて、公の言論である。公の言論、公に語られる言葉が、どれほど正当かつ有効であるか、政治家に求めているのは、最終的にはこれだけなのである。だからこそ政治家は言葉に気を遣わなければならないのだ。

 彼らに欠けているのが、公的な言葉を語る最たる人、つまり政治家としてのこの自覚である。シーザーは、適切な言葉が、適切な時に、適切な方法で、述べられなければならないと言ったそうだ。この自覚こそが、文字通り「ステーツマン」としてのそれのはずである。」



 相変わらず政治家の失言に厳しい池田さんです。なんと言っても、言葉は命、ですからね。

 公の議論を行う際に言葉に気をつけるべきなのは、政治家に限らず、公人が公の立場で発言される方は全て当てはまるのでしょう。極端な例を示せば、天皇のお言葉は練りに練られた完璧な言葉であることがいつも当たり前です。


 ただ今回の「機械」発言は、必ずしも思わず本音が出た、とはちょっと考えにくい気もします。大臣に限らず、普通人間を「機械」と思っていないでしょう。本音というよりも、専門的論議で使った比喩表現をどこか別の場所で使ってしまったのでしょう。そういう意味では、適切な場面では述べられていなかったのだろうとは言えそうです。


 ところでシーザーの言葉が今回引用されていますが、ユリウス・カエサルのことですよね。またもや、まるで塩野七生さんのような語り口に見えてきます。カエサルは、おそらく人類史上最高の創造的天才だそうですし、政治家としても最高なのでしょう。歴史に学ぶことはまだまだ多くありそうです。


 文章の最後に、文字通り「ステーツマン」、とあって、何が“文字通り”なのだろうと思ったところ、どうやら想像するに、statesman(政治家)とstatement(言明)をかけているようですね。そうだとすると、ちょっと池田さんらしくない言葉遊びですが。

好かれていたい(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-02-05 00:51:25 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「好かれていたい」という題でした。



「人は、自分のことを好きだと言う人のことを好きになる。嫌いだと言う人のことを嫌いになる。

 例えば、お世辞を言うと、人は喜ぶ。誉められると、人は嬉しいと感じる。お世辞を言うのは、その人の歓心を買うためだ。この人は自分のことが好きなのだと思わせると、その人は自分のことが好きになる。自分が好かれたいがために、人は人のことを良く言うのだ。

 好かれたくて嫌われたくないのが、人の世の原理なのである。他人にどう思われるかが、自分の行為の基準なのである。

 しかし、自分が自分であるということと、他人に好かれるか嫌われるかということは、全然関係ないのではなかろうか。自分の側にも、好きな人間と嫌いな人間がいる。それと、その人間が自分を好いているか嫌っているかは関係がない。その人間はそう思い、自分は自分で勝手にそう思っているだけだからである。」




 好かれたくて嫌われたくないのが人の世の原理、と言われれば確かにそうです。嫌われるより、好かれるのがいいに決まってます。

 ただ、好かれるにせよ嫌われるにせよ、その理由があったりなかったりします。また理由があっても、とくに嫌われる場合、納得できる理由とはいえないことも多いような気もします。

 そういう意味では、嫌われている場合は「自分は自分」と思って放っておけばいいわけですね。


 一方で「好かれる」場合、その人に対しては悪く思わないのが通常です。それだけであれば、あまり問題ではないと思うのですが、池田さんが問題にしているのは、好かれることなど他人にどう思われるかが自分の行為の基準である場合です。


 確かにいじめの問題でも、自分がのけ者にされたくないから一緒にいじめるとか、他人の自分に対する評価を気にしての行動は世間で多く見られます。もし他人の自分に対する評価を気にしなければ、もっと自由に行動できるのではないか、と言えるような気がします。