哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

進化論ホント?(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2005-11-11 23:59:44 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載今週号の「人間自身」は、「進化論ホント?」という題でした。

 抜粋すると、「アメリカで進化論を信じない人が4割というが、進化論を信じられないという人々の実感は案外はずれていないのではないか。進化論も人間による「考え」である。例えば、進化論で説明できずにひねり出された「突然変異」なるものは、結局説明できないという意味でなら「神」と呼んでも同じであろう。科学はそれを「仮説」というが、早い話が「物語」である。進化論とは、科学による天地創造の物語である。」

 アメリカにおける、宗教的教義を科学よりも信じるというアンケート統計は昔から何回も行われている気がします。科学で証明された真実よりも宗教的教義を信じるなんて?といつも思っていたわけですが、池田晶子さんにかかれば、科学そのものが相対的な説明のひとつにすぎず、それを信じるかどうかの話になってしまうことが、すでに「語るに落ちている」ことになります。

 かつては立花隆さんにあこがれ、科学的アプローチが客観的真実を探る唯一の方法と思っていた私にとっては、池田晶子さんの言葉は痛烈なカウンターパンチでした。ただ池田さんに言われるまでもなく、すでに科学自身が科学的アプローチの限界を発見したのが20世紀といえます。
 例えば、一番有名なのは物理学の不確定性原理ですし、クーンのパラダイム論も科学が必ずしも絶対的客観性だけではない面を示しています。そしてもっとも衝撃的だったのは、数学におけるゲーデルの不完全性定理でしょう。数学のような厳密な論理体系で、正しいかどうかわからない命題が必ずあると証明されたのですから、科学の絶対的完全性の自己否定といえます。

 今週の池田晶子さんの言葉
「科学も人間の考えであり、物語である。進化論は、科学による天地創造の物語である。」 

池田晶子さんの「考え」=「普通」に生きること

2005-11-09 08:01:22 | 哲学
 池田晶子さんの文は結構端的に表現されていますし、有名人の言葉であれ何であれ、論理的に間違った考えはばっさり斬りますから、その言い方に反感を買う人も多いようです。

 前回紹介した「占いと人生」について私なりに補足すれば、人生が何事でもないからと言って、実際に何事かであるようなことを全て捨て去るべき、とまで池田さんは言っているわけではないと私は思います。人生を物語っているにすぎないということを知ったうえで、「生きる」ということを「考えてみては?」と言っているだと思います。

 最近でも「日本は一つの民族」と失言した新外相がいたり、男系の世襲かどうかで議論される方々についての発言とか、これらも人生に物語を求めていることにすぎないのではないか、と考えることができます。そう考えたからといって、物語そのものを捨てるべきと言っているのではないのです。一体そもそも我々は何を議論をしているのか(物語ろうとしているのか)、ということを見失わないことが大切だと言っているのです。

 池田晶子さんの考えの仕方(哲学)を知り、そのように考えることができればどうなるか。それは、世間に渦巻く種々の(間違った)考えに惑わされず、これからは「普通に」生きられるという、ただそれだけのことだと池田さんは言っています。普通=普遍=真実ですから、まさに人生の真実は初めから私たちの傍にあったことに気づかされるだけなのです。ただ「それだけのこと」が、私たち凡人には困難な道なんですけども。

池田晶子さんの「ズバリ言うわよ!」①占いと人生

2005-11-07 01:32:30 | 哲学
 ちょっと流行半歩遅れなタイトルをつけてしまいましたが、哲学の巫女たる池田晶子さんの言葉の紹介として意外にふさわしいタイトルだなと勝手に自負しております。以後この題で、過去の池田晶子さんの著作から、「これは」と思う言葉を紹介していきたいと思います。

 まずはくだんの「テレビで毒舌的予言を吐く女性占い師・・」の言葉が出てくる文からです。

「言葉で言う、言葉で語るということは、言葉で語らなければ何事でもないことを、何事かであるかのように語ることである。わからない先のことを言葉で語る(=占い)とは、言葉で騙(かた)ることである。では、人間はなぜ言葉で騙られたいのか。それは人は物語がほしいからである。物語がなければ、人生は何事でもないからである。人は、人生が何事でもないという自由に耐えられないから、言葉によって規定されたい、縛られたいのである。」(『勝っても負けても-41歳からの哲学』P.145~146)

 要は、人生の先は分からないから不安で、占いに、分からない先のことを吉だ凶だと言い当ててもらって安心します。しかし、言い当ててもらうということは、言葉にすることによって何事でもないことを何事かであることにするにすぎません。過去の人生だって、どんなに苦しかったことでも吉と思えば吉だし凶と思えば凶ですものね。将来の人生も一緒です。

 「人生は何事でもない」と思えば、日々の日常生活の数々の苦しみや悩みなんて、それこそ何事でもない、ということになります。ただ、そこから何事でもない自由を生きていくことは、なかなか私たち凡人にはハードルが高い話です。

立花 隆さんの「サイボーグ技術が人類を変える」

2005-11-05 22:55:53 | 科学
 今日のNHK特集は表題のテーマで、大変興味深く見ました。立花 隆さんといえば、知の巨人として絶大な人気を誇るジャーナリストですね。

 番組の内容は、大きく分けると4つの内容でした。
(1)身体の機械化
 神経の電気信号を読み取って機械の手が意思通りに動かせる。事故で手足を切断されても代替が可能。さらにビデオ画像を電気信号にして脳に送り、目を代替する機械も開発中。
(2)機械に合わせて脳が変化
 神経の電気信号で機械を動かすやり方を脳が学び、本当の手を動かすのと同じように動かせるように脳が変化する。
(3)機械が脳を調整する
 脳の異常に対し、機械を体に埋め込んで電気信号を送って脳の信号を整え、パーキンソン病やうつ病患者を正常な状態に維持することは実用化されている。
(4)脳コンピューターインターフェース
 脳に電極を埋め込み、脳の電気信号を取り出して直接コンピューターに繋ぎ、あらゆる操作を脳だけで行う。軍事技術としても利用価値大。ラットや猿の実験では逆に脳へ信号を送って外部から身体の動きを制御することも可能になっている。

 だいたい以上のような内容でした。番組内での立花さんの発言は、人間の心が機械に還元されてしまわないか、というような言い方が多く、だから池田晶子さんにオッチョコチョイと言われてしまうんですよね。(私たち凡人は畏れ多くて絶対言えませんが。)

 画面に繰り返し「ヒトはどこへ行くのか」という言葉が出てきますが、池田さん的に答えるなら、いくら科学技術が進歩しようと、ヒトの存在の仕方は一向に変わらないと答えるべきなのでしょう。身体の機械化が進もうが、脳の電気信号が解明されようが、生きる価値については何も答えたことにならないと。
 でも技術革新はどんどん進めてもらってかまわないと思いますよ。ただ物質と精神の問題は別だと言っているだけなのですから。

『<脳>整理法』(今週の週刊ポスト書評)

2005-11-04 23:36:29 | 
 今週の週刊ポストでの池田晶子さんの書評は、茂木健一郎さんという方の著書『<脳>整理法』(新書版)でした。例によって本を紹介しつつ、ほとんどは池田晶子さんの「考え」が中心の文章でした。

 池田晶子さんの書評の主題は「脳の存在を客観的に捉えようとする著者の主観を問う」というものでしたが、この本の著者が、人々は脳をうまく使っていない、ということをいろいろ書いていることに対し、そもそも脳をどう使うか、ではなく、単に自分がどう意識するか、と言えばいいだけで、意識を脳の電気信号作用と捉える科学の見方は、片面的な認識方法に過ぎないと言っています(立ち読みだったので、ややうろ覚えです)。

 とくに観念論的哲学の考え方なのだと思いますが、「世界がまず客観的に存在するのではなく、自分が存在するから世界が認識でき、世界が存在するのである。自分が存在しなければ、世界は存在しない。」と明確に池田晶子さんは言い切っています。この考え方を理解することが、池田晶子さんの数々の言葉を理解する肝なのでしょう。「死は無である」という言い方も同じ考えから来ているはずです。

 唯物論的考え方、つまり自分がいなくても世界が客観的に存在するとか、あるいは科学的考え方、意識は脳の電気信号作用に還元される、等の考えの呪縛を解くのは凡人にとっては結構難しいのですが、池田晶子さんの絶対的言明も正しいと理解できますので、繰り返し考えていく他ありません。

お金を稼ぐと言う子供(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2005-11-03 19:15:11 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載今週号の「人間自身」は、「お金を稼ぐと言う子供」という題でした。

 抜粋すれば、「子供向け投資セミナーで子供たちが「お金持ちになりたい」と言ったり、親が「お金は生きる上で大切なのに学校で教えてくれない」と言う。馬鹿もほどほどにしなさい。お金よりも生きる上で大切なことを教えるのが教育である。金持ちになりたいとは、夢でなく欲望である。金持ちになったところで、人生の何がどうなるのだ。「生きる」とは命によって生きるが、どんな金持ちも死ぬ時に命は買えないのである。」

 そういえば何でも金で買えると言っていた若き経営者もいましたね。一般庶民はその発言に対して、違和感に加えてやや嫉妬感を持ったりします。やっぱりお金はあった方がいいとは思うし、実力があれば高所得を目指すことも当然のように考えます。池田晶子さんもお金を「得る」ことを全面否定するわけではなく、「お金はあればあったでいいじゃないか。それだけのこと」と言い、金稼ぎの自己目的化を批判しているものでしょう。

 「お金を大切にすること」は、「お金を粗末しない」という程度には言われるべき命題のようにも思います。それは「資源を大切にしよう」とかいう程度には、という趣旨で、決して本末転倒にならないようにです。ただ、若き資産家に嫉妬しているレベルでは、まだ「考え」が甘いんでしょうね。

 今週の池田晶子さんの言葉
「お金で命は買えない。生きる上で大切なものはお金ではない。」 

死刑制度廃止の是非

2005-11-02 05:26:57 | 時事
 先日法務相になった人がいきなり「死刑執行にサインはしない」と言って、1時間後に言葉を撤回するというドタバタがありました。

 法律を誠実に遵守すべき閣僚がいきなり「法律を遵守しない」と言ったことになるので、1時間後に撤回という茶番になったのでしょう。池田晶子さんに言わせれば、言葉が命であるはずの政治家が1時間後に撤回するというレベルは自殺行為、自ら政治家としての資質はないといっているのと同じ、ということになります。ちなみにくだんの政治家は弁護士出身のようでしたが。

 ところで、この死刑制度廃止の是非の議論については、正直悩ましい問題です。議論の対立軸はおそらく単純で、人権保障派VS被害者感情派ではないかと思います。どんなに国家機関が慎重に捜査しようと冤罪のおそれがある以上は死刑を廃止すべきでしょうし、どんなに人を殺しても犯人の命は守られてしまうという理不尽さを思えば廃止したくなくなります。

 しかも日本の刑法では、無期懲役であっても10年で仮出獄できますから、死刑制度がなくなってしまうと、単に犯人の命が守られるだけでなく、一番重い刑でもうまくいけば10年で一般社会に戻れてしまいます。これは、軽すぎるとしか考えられません。人権保障派からすれば、更正が期待できれば早期の出所は奨励すべきとも言えますが、現実には出所した犯人がさらに犯罪を起こすケースも多く(ex.強姦で実刑を受けた犯人が出所後逆恨みで被害者を殺人)、現状の死刑制度の廃止を肯定しかねる要素でもあります。

 池田晶子さんの著作には死刑囚と文通したものがあります。死を前にして、よく生きることは何かを考えるような内容ですが、だんだん死刑囚の心が乱れ、生きることへの執着が強くなると、その「考え」が甘くなってしまうという「普通の」人間の弱さが露呈する経過は、読んでいてやや複雑な気持ちになります。