哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

考え直す?

2011-03-21 11:28:28 | 時事
 前回池田晶子さんの文章を紹介したなかに、震災後「考え直そう」という言葉が多く聞かれたことを挙げていた。そのことは、今回の震災でも同じようだ。

 インターネット上の言葉を引用したもののようだが、18日の新聞のある記事にはこうあった。

「世界の人々が考え直すときが来た。殺し合いに力を使うのでなく、生き残った人々に心を伝えることこそ癒しの道だ。」
「人種、宗教、国籍を超えて、人であることに変わりはない。目を覚まそう。自然を前に放り出されたら、殺し合いなんてしていられないんだから。」


もう皆さんにはお分かりだろう。人種、宗教、国籍を超えて、人であることに変わりはないのは、地震前でも後でも、何も変わってはいない。国家も民族も、それをあると思い込んでいるからあると思うだけで、思い込みでしかないことは池田さんは繰り返し指摘していた。そして、何者でもない者同士、いかなる理由で殺し合うのか、と池田さんは『残酷人生論』で斬ったのだ。


悩むな、考えよ!と池田さんは常に述べていたが、みんな大地震でもないと考えないのよね、と池田さんなら飽きれていることだろう。それでも、折角なのでこれからは「考える」ことを忘れないでいたい。


しかし、最近の報道だと、リビアへの国際社会の軍事介入が正式に行なわれるという。リビア政権側が、停戦に応じていると表明しながら、実際には反政府側を攻撃しているかららしい。

さきほどの、殺し合いなんてしてはいられない、という言葉は、やはり空虚に漂うしかないのだろうか。

東日本大震災

2011-03-18 06:45:45 | 時事
 今回の地震では、津波の凄さを映像により思い知らされた。海外の地震での津波の映像は見たことがあったが、日本で実際に起こるのとでは切迫感が違うのだろう。このような悲惨な事態を目にすると、9.11のときもそうだったが、言葉を発することができなくなる。


 ところで、地震については、池田晶子さんははっきりと書いてくれている。


「大地震の直後、人々の率直な想いはこんなふうだった。すなわち、自然は畏れるべきものだ、人間はその前には無力なものだ、我々は驕っていた、人間の営みははかないものなのだ、そして異口同音にこう締め括ったのだ、「考え直そう」と。
 考え直す-。でも、何を? 何をいったい僕らは考え直すことができるというのだろう。生存と存在について、どんな新しい考えが僕らには可能だというのだろう。震災に強い待ちづくり、普段から防災の心構え、危機管理体制を強化せよ、なるほどそれらはその通りだ。しかし、これらのことごとのどこがいったい考え直されたことなんだろう。生きるために生きようとすることは、地震の前だって同じだったじゃないか。自然が人間の力を越えていることだって、忘れていたことを思い出しただけで、新たに考え直されたことじゃない。
 なら、生死かい? 生活とか生命というものは、何かがなければ何となくいつまでも続いてゆくものだと漠然と思っていた、それが間違いだったということを思い知らされた。なに言ってんだい、そんなこと、こういうことでもなければ気付かれないくらい当たり前なこと、それがようやく気付かれただけのことであって、ちっとも考え直されたことなんかじゃない。ほんとうに考え直すというのはね、考え直すことなんかできやしないということを常に新たに考え直し続けることでしかないのだよ。
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 良寛さんの手紙、〈災難に逢時節には 災難に逢がよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法〉
 これを皆は一種の諦観だと読んでいるようだ。人間の無力さ、諸行は無常だとね。しかし、違うね。こういう考え方のどこが諦観なんだ。こんなのはただの事実を述べたにすぎん。ほんとうの諦観というのはだな、諦めることなんかできやしないのだという考えに諦め続けることでしかないのだよ。」(『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』「地震と人生」より)



 かつて阪神大震災のときに被災して財産を失った人が、あれ以来物に執着しなくなったと語っていたことを覚えている。一生懸命貯めた、あるいは築いた財産を一瞬で失ってしまうと、その虚無感は計り知れないようだ。しかし、所詮物は物だし、物の追求を目的にした人生が虚しくなったのは、実は地震のせいではない。そのような人生が虚しいことはもとから当たり前のことだ、と池田さんなら言うだろう。

 それにしても良寛さんの手紙の言葉は、何度読んでも簡単には腹に落ちない。確かに諦観ではなく、事実のようだ。では、なぜ災難をのがるる妙法なのだろう。災難に逢い、死ぬのであれば、災難をのがれていないではないか。いや、のがれようと思うから災難だが、のがれようと思わなければ災難ではないということか。地面が揺れるのも、寿命が尽きるのも、単に普通に起こる出来事であるならば、わざわざ災難という必要もない。そもそも誰だって死ぬのだから、死ぬことそのものが災難であるわけはないといえば、確かにそうだ。


『「正義」を考える』 (NHK出版新書 339)

2011-03-05 18:32:32 | 
 社会学者の大澤真幸氏の本である。最初はサンデルブームに多く見られる便乗本かと思ったが、大澤真幸氏がそんな安易な本を出すはずはないと思いつつ、半信半疑で読み進めていった。読んでみると、もちろんサンデル氏も取り上げられているが、話題は多岐にわたり、現代社会をいろんな切り口から分析している。サンデル氏の立場であるコミュニタリアンに関する批判も行っている。


 この書物の底流にある、現代社会の病的な要素を一言でいうならば、「物語性の困難」ということだろう。冒頭の『八日目の蝉』の話もつまるところ、人生の物語性を肯定できない状態を指している。この物語性の困難が、コミュニタリアンに対する批判にもなっているのだ。コミュニタリアンは共通善を正義とするが、それは共同体内の共通性の中にとどまる見方であり、共同体は物語を共有するはずである。しかし、大澤氏は前述の通り、現代においては物語性の困難があるため、コミュニタリアンの前提が破綻していると指摘する。


 コミュニタリアンの難点はともかく、この本の中で大澤氏が主張していることの多くの部分が、なぜか池田晶子さんがよく書いていた直観的結論の部分に似ているように思えた。大澤氏はいろいろ事例を挙げて、立証するかのように分析していくのだが、その結論が、池田さんの端的な直観的結論に同じ内容になっているのだ。


 ただよくわからなかったのは、アリストテレスのアクラシア(悪いとわかっているのについやってしまうこと)について述べているところで、大澤氏はメタレベルでの快(=善)と苦を考えればよいという。メタレベルで考えるということは、さらにその上の階層のメタレベルが考えられることになり、その階層は無限に続いて、どこまでいっても最終的な、決定的な善が出てこないことになる。大澤氏はその無限の階層性を、現代の特徴である「資本主義」における貨幣の再投資という動きと重ね合わせて論じる。ただ、ソクラテスは、端的にアクラシアはないとしたそうだが、その方がすっきりしそうではある。


 メタフィジカルな池田さんならどう説明するだろうか。