哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

自分であり自分でない体(『暮らしの哲学』)

2007-07-29 20:55:00 | 哲学
 若い頃は自由だった体が、年をとるにつれ不自由になるもどかしさを池田さんも感じていたそうです。


「体は自分が作ったのではない、では誰が作ったのかと言えば、言うまでもなく「自然」です。自然は人間の意志を、どうこうしようという賢しらな意図を、完全に超えている。」


 その結果、自分の体は自分の意志を超えている、と書いておられます。

 確かに、体は自分のもののようで、自分の思う通りにならないことがよくあります。病気になる時はそうですね。とくに池田さんのようにガンになるというのは、全く予期できません。それにガンに限らず、治らない病気もよくあります。

 よく医者の話に、人は病気を自然に治癒する力を持っている、それを医者は手助けするだけだ、というのがありますが、そもそも体には病気になるという特質があるわけですよね。それが「自然」であり、人はコントロールできません。

 人智でわからないことがあって何がおかしいか、ということもよく池田さんは書いておられましたが、人間は日頃から体でもって体験しているわけです。

エコと倫理

2007-07-22 02:34:00 | 科学
 先日、確かNHKのTV番組で、ゴミの分別を普段行っている主婦に、分別しないで捨てさせるようにしたらどうなるか?という実験をやっていました。結果は、ゴミの分別を普段からきちんと行っている主婦ほど、ゴミの分別をしないことに罪悪感を感じるというものでした。

 つまり、ゴミの分別というのは、リサイクルとかの資源再利用という経済行為に過ぎないのに、普段から習慣として行うことによって善いことと認識し、そこから外れる行為を悪いことという認識を持つわけですね。

 善悪の判断基準について、新たに習慣化した規則から外れることを悪と捉えることを是とすると、善悪がかなり相対化してしまいます。池田晶子さんは、善悪は論理的帰結でなく、既に知られているものであるとか倫理的直感だとかよく書いておられましたが、これは新たに習慣化された規則によって作られる基準ではなく、飽くまで絶対的基準であるはずです。


 このことを思ったのは、たまたま雑誌「考える人」(No.21)の養老孟司さんの連載を読んだからです。少し要約して紹介すると、以下の通りです。

「温暖化は人為的だという見解を「正しい」と思う人があるが、経験科学に正しいということはなく、人為的原因以外にいまのところ温暖化に関する有効な説明がないというべきである。問題が政治化すると、温暖化を人為的と見るのが「正しい」となり、それを疑うと不正と見なされる。しかし、経験科学の結論はつねに、より蓋然性が高いか否か、だけなのである。
 もう一つ大きな問題は、ある社会的行為について「正しいことをしている」と思っている人は、しばしばその「正しい行為」にかかるコストを冷静に計算しない傾向がある、という経験的事実である。戦争を考えたら、イヤというほど、よくわかるはずである。自分が正しいと思っていると、「どれだけのコストを払ったとしても、勝たなければならない」となってしまう。だから、かつては特攻隊となり、挙句の果てに原爆を落とされる結果になった。政治的な問題での「正しさ」は、容易に原理主義と結びつく。私はそれをもっとも警戒する。」


 さすが、養老さんです。池田さんが見込んだだけのことはあります。

 いつか聞いたラジオ番組でも、プラスチックだかペットボトルだかをリサイクルするのに、作るときの5倍の石油を使っているとの話を聞いたことがあります。もし本当にそうなら、倫理的にではなく論理的に適切な判断をしていく必要があります。




イチローづくし

2007-07-15 19:24:40 | 時事
 今週はメジャーリーグのオールスターゲームでMVPに選ばれたイチロー選手の報道がありました。

 スポーツに興味がない池田晶子さんも、天才にはとても興味がおありだったので、イチローに関する文章もあちこちにあります。少しづつそれらの文章を集めてみましょう。


「自分が本当にしたいことを仕事にできる人は、幸せだ。楽しくて、お金が稼げて、しかも自分の能力を伸ばすことができるイチローみたいな仕事だ。・・確かに、スポーツ選手や芸術家などは、早くから自分の才能に気づいて、自分のしたいことがわかっている場合が多い。むろん、それで実際に稼いで生活できるようになる人はその中のごく一部で、その意味では大変だけれども、自分のしたいことをしているから、稼げはしなくても楽しいみたいだ。」(『14歳からの哲学』P.115)

「イチローにだってスランプはあるわよ、と友人に言い訳したら、イチローにはスランプは、もはや「ない」のだと教えてくれた。ある瞬間に、おそらくは何がしか玄妙な何かを捉え、自分にはスランプはもはや「ない」と悟ったのだそうである。ううむ、やっぱり人間ではなかったな。」(『ロゴスに訊け』P.68)

「あの人、イチローに関してだけは、さすがに私も関心があった。彼には、野球好き以外の人をも惹きつける何かがある。つまり、彼には天才の匂いがするのである。そして私は、あらゆる天才という人にに眼がない。天才が好きなのである。
 たたずまい、その気配で、だいたいそれはわかるものだ。野球の技術のことなど、私には皆目わからないけれども、インタビューでの受け応え、言葉の選び方、その間合いなどで、明らかに彼は精神の人であるとわかる。ある種の精神のありようを彼は自覚していて、言葉は常にそこを経由して発語されてくるのである。だから天才の言葉には無駄がない。他人を忖度するところがないのである。」(『勝っても負けても』天才が好き)


 もはや日本人であることも忘れさせるように、メジャーリーグの超一流選手となったイチローを、池田さんは「やっぱり!」と確信を持って見ていることでしょう。

 奇しくも、今月の日経新聞「私の履歴書」連載中の長嶋茂雄さんの話も天才的です。時代が違えば、池田さんはチョーさんが好きだったでしょうか。

「たまたま」のこの人生(『暮らしの哲学』)

2007-07-08 20:00:00 | 哲学
 やっと『暮らしの哲学』を入手しました。サンデー毎日の連載はよくフォローしていなかったので、初めて読む文章もあります。表題の文章から少し紹介しましょう。格差社会においてセレブな暮らしをしているか、カースト社会の末端で飢えているか、いずれでもありえながら、たまたま自分は今ここに生きているという話です。


「なぜ自分はここに生まれて、あそこに生まれなかったということは、考えても、理由がない。理由が見つからない。ということは偶然である。したがって絶対である。自分の人生はこうであり、これ以外ではあり得なかった。こうわかっているなら、あとは黙って生きるだけだ。」


 今回の文章には、「偶然的なことが絶対的である」「絶対的ゆえに相対的」というような逆説的な言葉が何度も見られます。

 今ここに生きている自分は、他で生きていたかもしれない、という偶然。セレブでもカーストでも誰も彼も自分だったもしれない相対。そして今ここに生きている自分の絶対。

 これらが一つに繋がった末に、その結論は「普通に生きる」という、煙に巻くようでいて真っ当な、池田さんらしい言葉です。

セカンド・ライフ

2007-07-01 19:37:37 | 哲学
 表題の名称は、いま流行のネット上のバーチャル社会のことです。世界の誰でも参加でき、会話をしたりゲームをしたり、またネット専用のお金で買い物をしたり、商売もできたりするそうです。また現実の企業が、そこで新製品のテスト販売をしたりもしているそうです。

 コンピューター・プログラム内のバーチャル社会というと、すぐにハリウッド映画を思い出したりしますが、バーチャルについて池田晶子さんはどう書いておられるでしょうか。
 たまごっちやアイボに心はあるか、というテーマでの話を要約して引用します。


「たまごっちやアイボは、生命ある自然物ではなく人工の機械であり、小説や漫画の人物は、現実の生存ではなく架空の物語である。あれらに心を感じることが可能なのは、こちらの心がそう感じているからに他ならない。問われている「心」の何であるかが不明である限り、対象に心が「あるかないか」を問うことはできない。したがって、心とは、それを心だと感じているまさにそれが心だということになるのである。
 心は、人間を越えて全存在者を包摂するそれ自体は不可知の、しかしまぎれもない現実である。なぜなら、心がそれを現実だと感じれば、それが現実であるからである。目に見えるか手で触れるかも関係がない。われわれはそれを憶測し、憎悪し、愛着し、嫉妬する。これがわれわれの日々のまぎれもない現実である。
 山川草木、「生きとし生けるもの」が魂を有するとする古代のアニミズムをも包摂して広がる、これは新たなリアリティである。その意味で、「仮想現実(バーチャルリアリティ)」という言い方は当を得ている。現実とは、「思われて」現実である以外はあり得ないからである。
 仮想と現実の区別がつかなくなっていることが、人々が倫理の基軸を失っているゆえんだとも言われるが、これは理由にはならない。そもそも、仮想と現実に区別はないからである。ゲームで人を殺すのも、実際に人を殺すのも同じことだ。それを「悪い」と感じるその心とは何か、もしくは感じない心もあるのはなぜなのか、そういったことを問い続けていることこそが、倫理的であるというそのことであるのは変わらない。われわれ=この宇宙は、いったい「何を」しているのだろうか。」(『考える日々Ⅲ』心で感じる仮想と現実)


 仮想と現実に区別はなく、ゲームで人を殺すのも実際に人を殺すのも同じこと、との指摘は的確です。ゲームや漫画に浸りこむことが現実からの逃避になってしまうのも、まさに仮想と現実に区別がなくなっている証左かもしれません。

 バーチャル社会(仮想現実)に関しては、現実とは「思われて」現実である以外はありえない、という言い方をされています。観念=現実ということですね。

 引用した文章の最後の「われわれ=この宇宙は、いったい「何を」しているのだろうか。」は、本当に池田さんらしくて大好きなフレーズです。