哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

自分で才能を信じる

2011-09-16 01:01:01 | 音楽
 先日たまたまNHKBSの番組を見たのだが、シンガーソングライターの植村花菜さんがアメリカのナッシュビルを訪ね、ミュージシャンの登龍門的なライブハウスで演奏するというものだった。植村花菜さんというと、「トイレの神様」くらいしかわからないのだが、番組のクライマックスは、たった2日で英語歌詞の新曲を作り上げてライブハウスで演奏するというもので、曲の出来の良し悪しはどうであれ、どんな壁にぶち当たろうとも自分の好きな道を歩もうとする姿は、自信に満ちあふれていた。まさにチャレンジングかつクリエイティブなのである。


 音楽に限らず、自分の好きな道を歩んでいるという自信を持って活動する姿は、周りから見てもある意味頼もしい。音楽も含めた芸能界は、成功すると凄いが、転落するともっとひどい、と最近の司会者の引退に絡んでよく言われるようだが、好きなことを続ける限りにおいては成功も転落も関係ない。世間がどう評価しようと、自分の才能を信じて歩み続けるだけだろう。


 これもたまたまなのだが、先日北海道行きのフェリーに乗ったときに、ギター1本で活動している女性歌手が船上ライブを行なっていた。その歌手は、普段は金沢で看護師をしていて、しかも三児の母親だという。それで曲作りもしてCDまで制作したというのだから、そのチャレンジングでクリエイティブな姿には驚いた。


 自分の本当に好きな道を貫いて生きるのも才能であろう。池田晶子さんが好きな“天才”の範疇にはいるかどうかは別として、自分で絶対と信じる才能がある人は、天から授けられた才=天才といっていいと思う。天才は、自らそうとしかできないことを、その通りしているだけなのだから。




「古人は、天才を指して「鬼神(ダイモン)」に憑かれた人とも呼びました。ダイモン、すなわち、個人を超えた何がしか大きな力に突き動かされて事を為す人です。天才と狂気がほぼ同じと言われるのもこの理由による。社会常識など知ったことか。自分にはこうとしかすることができないのだ。こうする以外の何があるというのだ。
したがって、「それしかできない」というのが、天才の定義のひとつです。どうしてもそうとしかすることができない、それ以外のことをしてまで生きていたいとは思わない。」(『人間自身 考えることに終わりなく』「天才とはどういう人か」より)


レディー・ガガさん

2011-07-02 03:25:00 | 音楽
 先日来日したレディー・ガガというポップスシンガーの話題が随分聞かれる。以前から、音楽より奇抜なファッションで話題が多かったと記憶しているが、最近は『Born this way』というニューアルバムがトップランキングという。

 以前たまたま、そのBorn this wayという曲のプロモーションビデオを見てしまったが、そのグロテスクな映像世界には大変驚いた。こういう映像が果たして人気なのか少々疑問ではあったが、その異常さゆえに大衆受けしているのだろうか。天才好きな池田晶子さんは、このような音楽には何の興味もないだろうが、ややアングラなイメージのレディー・ガガさんを天才に含めてくれるだろうか。少し躊躇しそうだ。商業的には相当成功しているようなのだが。


 このBorn this wayという曲の歌詞を見てみると、随分映像とギャップのあるシンプルな内容だった。この歌詞を哲学的だという人もいるようだが、果たしてどうだろうか。題名からして、自分はこのように生まれたといい、歌詞の内容は基本的には、私は私でいいんだ、という徹底的な自己肯定の内容である。


 歌詞の中には、少し池田晶子さんの謂いに似ている部分もある。「人種や民族は関係ない」とか「自分の人生を生きるしかない」という趣旨のところだ。しかし、歌詞全般はやはり全面的自己肯定でしかないようである。この歌詞のメッセージで、安心し癒される人も多いのかも知れないが、そこで終わっては哲学的とは言い難い。


 自分は自分のままでいいんだと、自分は完璧だと思ってしまい、その先を考えないとすれば、それは思考停止としか言いようがない。そもそも、その存在が信じられている「自己」とは何か、というのが池田晶子さんのよく取り上げる問いである。考えることは無限大に広がるのであり、我々は未だ考えることの出発点にいるのだと思ったほうがよい。池田晶子さんのよく言う“振り出し”だ。この曲を、自己というものを振り出しから考えるきっかけにするならば、まさに“哲学的”である。


「トイレの神様」(植村花菜)

2011-02-24 00:50:00 | 音楽
 たまたまANAに乗ったところ、機内のオーディオプログラムで植村花菜さんの音楽特集をやっていた。

 表題の歌は歌詞がストーリー仕立てで、かつての「木綿のハンカチーフ」や「雨宿り」のような、歌詞を最後まで聞かないと完結しないパターンの歌だ。紅白歌合戦で全部歌うのかどうかが話題になったのも、そのためだろう。ただ上の2曲が紅白で歌われたりしたのかはよく知らない。そういえば外国曲で「コパカバーナ」というヒット曲もストーリー仕立てだった気がする。


 さて、表題の歌の中身はあまり触れるつもりはないが、去年上海万博で本人が歌ったところ中国人が感動して涙していたという話があった。ふと思ったのは、「トイレの神様」という、まるで一神教では考えられないような神様の命名は、中国では日本と同じように受け入れられやすいのかな、ということだ。多神教の社会なら、至るところに神様が居ても、全く不自然ではない。すると一方で、一神教においてはこの歌の題名はどう受け止められるだろうか。



「八百万の神々とは、言ってしまえば、アニミズムである。万物が神であるか、あるいは万物に神が宿っている。そしたらこの自分だって神であるか、何か神に近いものである。自分と神とは超越的に別物だとする、一神教的な無理がない。一神教の神様は絶対だから、その神様に救われなければ、人は絶対に救われない。どころか、追及されるか裁かれる。だから一神教の人々は、あんなふうに融通がきかないのである。
 しかし日本の神様は、いい加減で無責任である。なにしろ、捨てる神があれば、拾う神もある。」(『41歳からの哲学』「なんと自在でいい加減-神道」より)



 一神教の社会でこの歌がどう思われるかは、とくに話題になってなさそうなのでよく分からないが、肯定的に見れば、トイレの神様も唯一神の別の姿であって、トイレにおいても下々を見守っているということになるのだろうか。神は細部に宿る、という考え方は多神教でも一神教でも同じようにありそうだからだ。


 それにしても、「トイレの神様」の日本におけるスムーズな受け入れられ方は、なんだか微笑ましい。発端は、おばあちゃんの孫思いの教育における一種の方便なのだろうが、神様というものについての素朴な思い方や大らかさ、寛容さが感じられるからだ。いや、一神教の神だって(本来は)寛容なはずなので、もしかしたらスムーズに受け入れられるかも知れない。

明日、辻井伸行さんETV特集再放送

2010-01-10 06:45:45 | 音楽
 明日朝9:30から、以前紹介した辻井伸行さんのETV特集が再放送されるので、是非ご覧いただきたい。

 なお、以前紹介したときに指揮者と息づかいでタイミングを合わせる所としたのは、「ピアノから始まる章」ではなく「ピアノとオーケストラが同時に始まる章」であった。
 このことは、avexから発売されたコンクールドキュメントDVDを視聴して気づいた。このDVDの映像は、かなりの部分がETV特集と同じ映像であったが、全く同じ内容ではない。DVDの方は外国人の監督が製作したとうたっているが、映像としての作品性を重視したのか、テレビ番組としてのETV特集よりは、少し説明が足りないように思う。例えば、ピアニストの横山幸雄氏が駆けつけた理由を、DVDでは説明していなかったが、ETV特集では、ファイナルに進むことができたため急遽ファイナル用の曲の特訓のために来たことが説明されていた。
 DVDの方は、ETV特集を見てから視聴したほうが良いだろう。


 そもそも、盲目のピアニストが海外のコンクールで優勝したという報道に初めて接したとき、何か特別扱いを受けたのだろうか、と少し疑いの気持ちを持った。今回の優勝者が二人いたということも、そんな疑いに拍車をかける。しかし、そんな生易しいものではないことは、番組を見ればわかる。

 耳から聞いただけで全ての音符を記憶し、ピアノで弾くことができるというだけで、大変驚きだが、このコンクールはもちろんそんなレベルを超えて、アンサンブルやオーケストラとの協調性、そして芸術家としての表現性まで問われている。
 さらにいえば、辻井さんがもう一人の優勝者と共通していたのは、周りに対して謙虚であったように思われるところだ。コンクールの挑戦者たちは皆若いが、皆自信を持っており、番組中でそれが行き過ぎているでは?と見受けられる者も中にはいた。


 話は変わるが、障害を乗り越えて活躍している人を見るたび、高校の英語の授業でヘレン・ケラーの言葉として教えられた「Who is not handicaped?」を思い出す。障害を持っていない人なんて居るだろうか?というのである。たとえ目や耳など身体に障害を持っていなくても、心の病もあれば、社会環境や経済環境など、多くの人はいろんな障害を抱えてすごしているではないか、というわけだ。

 確かに自殺者が日本に何万人もいることを考えると、障害を乗り越える気概と勇気が必要なのは、いわゆる身体障害者に限る話ではない。辻井さんの活躍に元気をもらうという話は、決して身体障害者だけではなく、いわゆる健常者であっても全く同じなのだろう。

辻井伸行さん

2009-12-26 05:40:50 | 音楽
 最近、辻井伸行さんのドキュメンタリーを2本見た。1つはNHKのETV特集で、優勝したコンクールの密着取材であった。もう1つは民放のドキュメンタリーで、小さい頃からコンクール優勝までの11年くらいの期間を取材したものであった。

 感動的だったのは、やはりNHKの方であった。常々ドキュメンタリーものはNHKの制作がすばらしいと思う。池田晶子さんは晩年にNHK批判をしていたが、池田さん自身もともとNHKくらいしか見ない性質だったと思うし、個人的にもテレビを見るならNHK優先である。

 さて、NHKのドキュメンタリーでは、ヴァン・クライバーン・ピアノコンクールの優勝までのリハーサルなどのやりとりが大半であったが、そこでは、目が見えないことにより、アンサンブルや協奏曲でいかに他の奏者やオーケストラと合わせるかが大きな課題となっていた。

 例えば、協奏曲のリハーサルで指揮者が、ピアノから始まる章でのタイミングを計るのに苦労し、前章終了から4拍数えてスタートするなどいろいろ提案していた。すると、通訳が言うには「辻井さんのマネージャーによると、彼は指揮者の息遣いでタイミングを計っているそうです」と。そこで、指揮者が指揮棒を振るタイミング通り強めの息遣いをすると、ピッタリのタイミングで辻井さんが演奏を始めたのである。指揮者が最良の解決策を見つけて、喜んで辻井さんの肩を叩いていた。

 誰もが息をしているし、何か新しい動作をする時、強い息使いをするものなのだろう。普段は気づかないようななんでもない事が、困難な事態の解決策になることに大きな感動を覚えた。上杉鷹山の「なせば成る」どころではない。「不可能を可能にする」ことができてしまうのだ。

 NHKのETV特集は再放送をすると思うので、是非視聴をお薦めしたい。

神尾真由子さん

2007-08-26 02:16:00 | 音楽
 天才が好きだった池田晶子さん。音楽家のことはあまり書かれていなかったように思いますが、今回は天才と思しき若き音楽家の話題です。


 このたびチャイコフスキー国際コンクールのバイオリン部門で優勝した神尾真由子さんはまだ21才にもかかわらず、その表現力の豊かさと気迫には非常に驚かされました。

 たまたまN響の定期演奏会で、神尾さんがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾くのを生で見ることが出来たわけですが、若さとは裏腹にその堂々とした風格には天才の片鱗が見えていたように思います。

 記事によると神尾さんは13才からジュリアードに留学し、現在はチューリッヒに在住しているそうですから、小さい頃から自分の目指す道を見出し、その道を極めていったわけですね。


 自分にはこれしかできないということを地道にやり遂げること、は天才が自らの天性に気付くことのよって為しえるわけですが、その姿を垣間見せてもらいました。

『西洋音楽史』(中公新書)

2006-01-26 06:09:20 | 音楽
Excite エキサイト: 西洋音楽史

 今クラシック音楽がブームなのだそうですが、サンプラーみたいなベスト盤がよく売れている程度では、にわかに信じがたい気分です。
 しかし、本当にクラシック音楽が好きな方には表題の本は大変お薦めです。

 歴史的背景や社会情勢を踏まえて音楽の歴史を語る様は、この本の小ささと異なり、かなりスケールの大きい展開です。中世音楽の話から始まりますが、歴史書のような実証的記述は、非常に興味深く読めます。しかも最後のところでは、ジャズやポピュラー音楽も西洋芸術音楽史の流れの中に位置づけられています。

 いろんな作曲家の名前も出てきますが、それを歴史的に位置付けていく話も大変面白く読めます。例えば、バッハは時代を超えた偉大さはあるものの、多分にドイツナショナリズム高揚による再評価の要素があったり、ベートーヴェンの労働賛美的な集団熱狂(第九のフィナーレ)など、歴史的文脈によって作曲家の個性と音楽の時代的背景が整合していきます。

 この本に触れられている音楽は、歴史の順番に実際に聴いてみたくなります。もしかしたら、人間精神の歴史的運動を実感できるかも知れません。

モーツァルト・イヤーだそうで

2006-01-23 23:59:59 | 音楽
 先日NHKの「クローズアップ現代」(息の長い番組ですね!)で、今年モーツァルト生誕250年であることから、モーツァルト特集をしていました。

 その番組によると、今クラシック音楽がブームなのだそうです。それは本当なんでしょうか。私のまわりにも、若干少数ですが、オペラを見てみたいという人は出てきたものの、ニンテンドーDSのような熱狂はありません(当たり前?)。

 そのNHK番組での科学的実験なるものに疑問を一つ申し上げます。
 ベートーヴェンよりもモーツァルトの方が脳にやさしい快感を与えるということを脳波で確認する実験(池田晶子さんなら「何で“脳”なんだ?」とまた言われそうですが)で、比較した音楽がなんと、交響曲第5番「運命」と「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」なのです。これは科学以前におかしいですよね。百歩譲っても長調か短調かぐらいは同じ種類の音楽を比較しないと客観的比較にならないではないですか。
 当然この実験結果では、ベートーヴェンよりモーツァルトの方が脳にやさしいというのですが、運命と比較するなら交響曲25番かレクイエムにすべきでしょう。まあ、それでも微妙にモーツァルトの方がやさしく感じるのかも知れませんが。

 そうはいっても、かつて自民党がテレビ報道の公平さに文句をつけたように、ベートーヴェンさんにも文句を言わせてあげたい気分でした。

元ちとせさんの「ワダツミの木」

2005-12-09 05:08:58 | 音楽
 最近FMラジオで、元ちとせさんが出産・育児を経て音楽活動を再開することを知りました。新曲もラジオで聴きましたが、やはりデビュー曲のインパクトは忘れられないですね。

 この曲がヒットした頃は、日本経済がまだまだ低迷していて、この曲が癒し系の音楽のはしりだったかも知れません。

 同じような音楽の、癒し系の「ジュピター」や元気づけ系?の「地上の星」に比較して、歌詞自体にはあまり意味がありそうには見えませんが、このスローテンポな音楽には静かな波のようなパワーがあります。

 インターネットで調べてみたら、「ワダツミ」とは「わたつみ=海神」だそうです。海に住む神の話なのでしょうか。

無伴奏チェロ組曲

2005-11-25 23:48:01 | 音楽
Excite エキサイト: 無伴奏チェロ組曲


バッハの曲の中でも無伴奏チェロ組曲のファンの方は多いようです。しかもこの曲は「チェロ」用の曲なのに、いろんな楽器で演奏される珍しい曲です。

 ビオラやコントラバスもあれば、ギターもあります。上にリンクしたのはなんとフルートによるものです。他にもホルンやサクソフォンもあります。もっと他にもあるかも知れません。

 無伴奏チェロ組曲は、曲調もいろいろあって、本当に楽しめる曲だと思います。舞曲らしい曲もあれば、祈りのような音楽もありますし、なんといっても無伴奏であることがシンプルでストレスなく聞かせてくれます。
 楽器による音や響きの違いも併せれば、2倍の楽しみがあります。

 同じ無伴奏でもヴァイオリンパルティータとソナタの方は難曲らしく、あまりいろんな楽器で演奏されることはないようですが、それでも有名なシャコンヌはピアノやギター版があったりします。
 こちらも結構お薦めですね。