哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

アルジェリア人質事件

2013-01-27 19:30:20 | 時事
日本人10人死亡という表題の事件は、改めて衝撃を覚えるものであった。ビジネスとして海外に行く日本人は多いし、アフリカにいる日本人ビジネスパーソンも少なくないだろう。現地は軍事地域とされていたというから、アルジェリア軍が守っているという安心感が今まではあったのであろうか。もちろん翻ってみれば、日本に住んで居るから絶対安全という保証もないのだが。

ところで、マスコミや政治家の話ではこの事件をきっかけに憲法と自衛隊も絡めて論じる向きもあるが、憲法改正論議をどうのというつもりはないものの、以下の憲法前文を思い返すと現実との乖離の大きさに言葉もない。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

国際社会は冷戦時代以上に混迷を深めており、諸国民の公正と信義に信頼することは果たしてできるのか。いや、しかしこの前文は人類の理想を表明しているはずであった。人類共通の理想ではなかったか。池田晶子さんの文章は明快に指摘している。

「じっさい憲法の前文など、読むほどに深く安心させられる。お経のようなものである。あれは般若心経である。専制と隷従、圧迫と偏狭に苦しみ、ひとしく恐怖と欠乏から免がれることを希求する我々地上の人類にとって、あのような崇高でありがたいものが存在しているということは、よいことだ。それが現実に即さないからといって、それを現実に即して変えることの理由にはならない。お経が現実的でないといって、人はそれを変えようとするものだろうか。」(『勝っても負けても』「憲法は象徴である」より)

憲法前文は般若心経である、という名文句はもっと知られていいように思う。お経を唱えて死者を弔うように、憲法前文を唱えて世界平和を希求する。日本人にはわかりやすそうな話であるが、世界人類にはどうだろうか。通用しないはずはないが。



似るということ

2013-01-21 23:30:23 | 時事
書類を整理していたら、古い新聞記事が出てきて、冒頭に『正法眼蔵随聞記』の一節が紹介されていた。それは、「霧の中を歩けば、知らないうちに、衣が濡れる。それと同じように、立派な人に近づき接していると、知らない間に、立派な人になる。」というものだ。

確かに、どういう人と交流しているかにより、その人物を見定めるというようなことも、ビジネスの世界などでよく言われる。つまり、衣が濡れるのも、良い意味と悪い意味と両方あるというわけだ。「朱も交われば赤くなる」という言葉も、同様の意味だろう。

かつて警察官が暴力団と間違われて射殺された事件があったが、暴力団対策の警察官はなぜか暴力団員風の風体になってしまう。暴力団に舐められないようにするためだと聞いたことがあるが、しかしそのあまりにも似た雰囲気は、自然にそうなっていってもおかしくないと思わせる。

ところで、 実は以前に読んだ『寅さんとイエス』の一節にも、対象と似てくるという意味の話があった。
「自己にとって最も価値あるもの、大切なものを愛情込めて見つめていると、取るに足りない自分自身もおのずからにその価値あるものに類似してくる。・・・・キリスト教を一言で言えば、神倣いの宗教である。神に倣うこと、神を見つめることによって、人間が神に似た者となってゆく。」(『寅さんとイエス』P.173)

確かにキリスト教は、聖書からキリストの言葉を神の言葉として倣い、神のごとく生きようとするのであろう。そうであれば、自らが見るもの、価値あると思うものに似るということは、書物を通じても同じことが起こるように思える。池田晶子さんが、ソクラテスのように、あるいは小林秀雄氏のように語り得たのは、まさに書物からの神倣いのようではないか。

『古典力』(岩波新書)

2013-01-14 01:26:26 | 
表題の本の著者である齋藤孝氏は、いろんなテレビ番組によく出ていて、あまり好感を持っていなかったし、表題の本も「○○力」といういかにも流行りきった安易な題名であるので、中身の期待はあまりしていなかったのだが、気になって読んでみたところ、これこそは若者が古典をひもとくにあたって是非読むべき本であると思った。

人生の若いうちに古典を読むことをしなければ、絶対に後悔する。そのことは今の若い人たちにこそ絶対にわかってもらいたいことだ。この本のように古典を入門的に取り上げている本は、新書だけでも数多くあるが、この本が優れているのは、冒頭にある古典の読み方の説明が充実していることだろう。我々一般人が読むときの読み方に沿うようにアドバイスされており、専門分野に拘泥しない読み方をしてほしい高校生や大学生にお薦めである。もちろん好みもあるので、この本に載っている全てを読まなくてはならないわけではないものの、少なくとも半分以上は教養として読んでおきたいように思う。

この本で取り上げられている古典もほぼ納得できるものだが、ただ一点だけ引っかかったのは『共産党宣言』である。確かに薄くて読みやすいが、歴史的事件としては格別、繰り返し読みたい本になるだろうか。マルクスで取り上げるなら、その説明文中で触れている『資本論』にすべきではないかと思う。『資本論』が大部だからといっても、古典の読み方としては、それを全部読み切る必要はなく、拾い読みでも構わないのだから。

金子みすゞさんと相田みつを氏

2013-01-13 01:47:01 | 時事
思い立って、ある人に金子みすゞさんの詩集を贈った。金子みすゞさんのような感性を大事にしてもらいたいと思ったからである。震災後の公共広告で繰り返し流れた「こだまでしょうか」という詩によって、金子みすゞさんの詩が見直されて再度ブームにもなったときく。

金子みすゞさんの詩には、人間の立場を超えた視点が常にあり、その鋭くも儚い感性の瑞々しさは、本当に稀有である。代表作の「大漁」は短い詩なので全文を記憶できるが、大漁を喜ぶ人間の視点から、弔いをする魚の視点への劇的な反転が衝撃的である。他の詩にも同様の感性が見られて、人間の枠でしか見ようとしていない我々の狭い視野を反省させる。

ところで、本屋へ行って詩集のコーナーへ行くと、金子みすゞさんと相田みつを氏が大抵並んでいる。一見同じような詩人の部類に思われるからかも知れないが、実は種類が全く異なるように思う。相田みつを氏の詩は、政治家や経営者層に人気があるらしいが、その感性は金子みすゞさんとは異なり、あくまで人間の視点に留まる。前首相が取り上げた「どじょう」の話も、決して人間の立場を離れた視点にはなっていない。泥に住むどじょうを人間の視点で見ているにすぎないのだ。

池田晶子さんも実は、相田みつを氏について批判的に書いている文章がある。

「人が、「人間」の語を使用して、「人間らしい」「人間的な」「人間として」等と述べる時、それはいかなる意味なのか。
だいたいにおいて、それは、「優しい」「思いやりのある」「さまざまな感情を内包する」といったような意味であるらしい。・・・(略)
けれども、これらのすべては、語「人間」のあくまでも属性である。その列挙である。それらの属性を担っているところの当の「人間」、この主語の何であるかは、一言たりとも述べられてはいないのだ。なお厄介なことに、この語を使用してそれについて述べるのは、常にすべてが「人間」である。それで、各人勝手に好きな意味を込めて、この語を使用することになる。相田みつをの「人間だもの」はその好例である。失敗だってするさ、人間だもの。
要するに、何だっていいのである。「人間だもの」。私は、この種の自己正当化に、たまらなく不潔なものを覚える。相田に限らない。聞いていると多くの人が、この語のこの種の用い方をする(だから相田は人気がある)。「感情豊か」の意では、肯定的にこの語を用いていた人が、自身の感情的な振舞については、「人間ですからねえ」と逃げを打つ。時と場合によってどうとでもなる、この恣意性が、気に入らない。」(『考える日々3』「だって、にんげんだもの」より)

このような「人間だから」という使い方は確かに世間に多いが、この池田さんの指摘には全面的に同意する。