哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『我関わる、ゆえに我あり』(集英社新書)

2012-03-26 07:50:50 | 科学
久々に面白い科学の本を読んだ。宇宙科学の権威が書いた本だが、題名を見てもわかるとおり、哲学的な話もかなり触れられている。ゴーギャンのあの「我々はどこへ行くのか」という有名な絵にも触れられ、芸術、哲学、宗教も話題にした壮大なスケールの展開なのだが、新書サイズなので分量は多くない。哲学の分野では、とくに世界を言語で記述したヴィトゲンシュタインが中心に取り上げられているが、アリストテレスなどギリシャ哲学にも触れられている。全体的には、科学的な考え方を前提にしつつ、人間の世界を宇宙全体の視点から捉えようとする。科学の限界を感じつつ記述されているので、あと一歩踏み込めば池田晶子さんの考え方に重なっていきそうな、科学の限界すれすれの思考が感じられる。しかも何と言っても読みやすくわかりやすい文体なので、高校生には是非読んでほしい科学の本である。

宇宙にも考えが存在すると書いていた 池田晶子さんなら、この本はかなり肯定的に評価してもらえたのではなかろうか。

吉本隆明氏逝去

2012-03-19 20:46:46 | 時事
 かつて左翼思想の中心にも居た思想家とされる吉本隆明氏が亡くなったそうだ。私も『共同幻想論』は読んだことがある。ただ、メディアでは詳しく報道されないが、印象深いのは同氏がかつて左翼から「転向」を自ら表明したことだ。池田晶子さんにも、その頃の同氏を取り上げた文章がある。


「時代とともに平行移動してゆく吉本氏のような仕方でものを考えることが、我々各自の人生と、また社会そして人類の総体にとって、最終的にどういう意義をもち得るだろう。そう、「最終的に」。最終的な意義などというものを求めること自体がもはや虚構なのだと言うならば、ゴロツキの諸君、私は言おう。君は一切の言論活動から身を退くべきだ。そうでなければ、意義などないと公に説く君自身の行為の意味を釈明するべきだ。
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 自分とは何か
 この自同律とは
考えるから彼は思想家なのであって、これらの全てを自明と信じて、そこから話を始めている吉本は、だから思想家ではない、普通の人だと私は言ったのだ。自らそう認めている通りでもある。私はここに、生活が良くなれば本質的なことを考えなくなってしまう元思想家の姿を見て、とても残念に思う。」(『メタフィジカル・パンチ』「吉本隆明さん」より)



 池田晶子さんがこの文章を発表したのは、95年の「諸君!」誌上だそうだから、からこれ17年くらい前になるわけだ。吉本氏を普通の人と言い放つ池田さんの謂いは厳しいように聞こえるが、転向を発表した頃の吉本氏に対しては、結構他にも厳しい批判があったような気がする。組織のリーダーに朝令暮改があってはならないように、人々を引っ張る人物が考え方を根本的に変えてしまうということは、大きな失望にしかならないのだろう。これまでは一体何だったのだろうか、と。最近の吉本氏の著作は読んだことはないが、メディアでは肩書きを「評論家・詩人」としているから、既に思想家であることはやめていたということだろうか。




週めくり池田晶子 51

2012-03-12 01:42:00 | 哲学
今の職場に“さだまさし"ファンがいて、卓上に彼のカレンダーが置いてあり、そのカレンダーは週変わりでさだまさし氏の言葉が紹介される仕組みになっている。なるほど、週めくりでの紹介の仕方もあったのか、と感心した次第である。
そこで、「日めくり池田晶子」も続編の52までを 週めくりとして一旦締めくくろうと思う。最後の2つは、池田晶子さんの主著といえる『14歳からの哲学』からである。




51 精神は自分を自覚する。


 精神としての自分を自覚するんだ。そして、精神にとっては精神よりも大事なものはないと知る。なぜなら、精神としての自分にとって何が大事かを考えて知ることができるのが、まさしくその精神だからだ。精神にとっては、精神こそが大事なもの、他の何ものにも換えられない価値なんだ。自分を大事にするとは、つまり、精神を大事にするということなんだ。(『14歳からの哲学』「18 品格と名誉」より)



家庭と社会

2012-03-05 22:00:55 | ワイン
 両親の下に子供が生まれ育てられたとき、その育てられ方や親子の接し方は家庭ごとに様々であろうが、家庭内のことは基本的には四六時中世間にさらされるようなことはなく、極めてプライベートにとどまるものである。親子以外の親族との接し方も、同居でない限り家庭内よりは少しよそよそしくなるだろうし、世間一般との接し方においては、なおさら家庭内の親子の接し方のように世間一般の人と接することはありえないだろう。

 しかし、子供にとって最初に接する自分以外の人が両親であるから、両親との家庭内での接し方は、その後の世間一般での接し方に大きい影響を与えると思う。これは決して家庭内暴力のような極端な話だけでなく、普段の普通の生活での接し方を言っている。親子の接し方にもいろいろあるだろうが、親も初めて自分の子に接するのであるから、人間として対応の仕方が必ずしも良い場合ばかりではないだろう。一方で、子の社会適応力を非常に高める接し方ができる親もいるかもしれない。親だけの問題でもなく、子にも性格等、接し方に問題が発生するケースもあるかもしれない。


 池田晶子さんにも、親子の接し方が社会における付き合い方の予習であると書いた文章がある。少し引用してみよう。



「動物なら生きるために家族で助け合うという理由が明確だけど、人間が家族の中に生まれてくる理由は、それだけではないんだ。家族というのは最初の社会、他人と付き合うということを学ぶ最初の場所だ。家族の外の社会には、もっともっといろんな他人がいる。そういう他人とどう付き合ってゆくのかを予習するための場所なんだ。」(『14歳からの哲学』「11 家族」より)



 今月の日経新聞「私の履歴書」の著者は経済人であるが、小さい頃は祖母に厳しく教育され、それが社会へ出て役に立っているという。おばあちゃんの存在が人類の発展に貢献したと、どこかの教授が書いていたが、もしかして二世代同居という家庭形態が子供の社会への接し方に良い影響もあるのかもしれない。しかし、孫はおばあちゃんに甘やかされすぎる場合もあるので、一概に言えない気もする。

 ただ親の影響がどうであれ、最後は子供自身が自覚的に社会と接するようになるしかない。もし親の教育に問題があろうとも、最後は子自らが社会から学ぶしかないのであろう。結局、親も他人であることに、逆説的に気づくものなのだろうか。