哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『ラテン語の世界』(中公新書)

2006-05-29 00:10:00 | 語学
 前に英単語の語源に関する本を読んだら、かなりのものがラテン語まで遡ることを知りました。で、ラテン語はどんなものだろうと、比較的最近出版された掲題の本を読んでみました。

 ラテン語も英語も数々のヨーロッパの言語もインド・ヨーロッパ語族に属し、それにはサンスクリットも入るそうです。その他の語族には、ヘブライ語やアラビア語が属すセム語族と、日本語も属すウラル=アルタイ語族があります。

 語源という意味で、さらにラテン語などのインド・ヨーロッパ語族の基となった最古の言語は、紀元前3千年位に南ロシアあたりから発祥したそうです。基となった言葉には「海」や「馬」はなかったが、「船」や「櫂」「帆」はあったので大きな川や湖は知っていたらしく、鉄も持っていた人類だったそうです。
 一体どんな経緯で人類が言葉を獲得したのか興味のあるところです。


 哲学で一般の人まで知っているラテン語は、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」でしょうか。ラテン語は話者の主語がなく、動詞の格変化で全て表現するようです。「コギト・エルゴ・スム」も直訳すると、「思う・ゆえに・在り」となるが、動詞の格により「我は」が補うことができるようです。


 さて、池田さんのいう「言葉は命」、語源は生命の源を探る面白さはありますが、語源や言葉の源を知ったところで、「言葉は命」がわかったことにはなりません。例えば池田さんは、言葉では考えない、という言い方もされます。じっと思考をしているとき、言葉は使わないそうです。確かに我々も何か考えるときに、いちいち言葉を頭の中にめぐらせているわけではないですね。頭でわかってても、言葉に出せなかったりするのがいい例です。

 ということは「言葉は命」というのは、言葉になる前の基となる概念こそ命、とでも言い換えるのが正しいようです。ただ、概念は言葉にしてこそ、他者に伝わるのですから、結局「言葉は命」になるのですけれども。

前世を知りたい(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-05-27 03:30:17 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「前世を知りたい」という題でした。ポイントとなる文を要約しつつ抜粋します。

「人間は理解できないものを理解したいという根源的欲求をもつ。人間にとって最後まで理解できないものとは、この宇宙であり、人間が生きて死ぬ謎である。科学は理解のための方法であって、宇宙に人生があるという謎は少しも動いてはいない。輪廻転生という考え方でも、謎の側が動いていないのは同じである。
 過去はどこにも存在せず、記憶でしかない。また自分の現在を理解するために過去世を知る必要はない。もし現在を変えたいと思うなら、過去を知る必要はなく、現在において変わる以外に変わりようがない。」



 今回の文章の冒頭には、「前世や来世を言い当てる人気の霊能者がいる」と書いてありますが、これは「ずばり言う」あの人のことでしょうか。最近あの人の番組を見ませんので正確にはよくわかりません。もしあの人のことであれば、ホリエモンや政治家に関する予言不的中で人気がなくなったのではないかと思っていました。


 池田さんの文章は、難しい哲学をわかりやすい言葉で説明することで有名ですが、「わかりやすい言葉=理解しやすい」ではないのはご承知の通りです。また逆に言葉自体は当たり前すぎて、それ以上他に言い様がなく、悪く言えば、みもふたもないなんてこともあります。

 「方法」によって理解したと思いこんでも謎自体は動かない、とか、現在を変えたいのであれば現在において変わる他はない、とかはまさにそうです。これらも少し考えれば当たり前のことなのですが、我々庶民は、声の大きい人(=マスコミなどでちやほやされる人)に騙されやすいのでしょう。

 少しでも「考える」ことを実践すること、結局はこのことしか池田さんは言っていないといえるかも知れません。

茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日文庫)

2006-05-24 05:22:36 | 語学
 この著者は最近亡くなられたそうです。詩人だそうですが、この本を書店でたまたま手に取るまでは、全く名前を知りませんでした。


 それにしても「詩人」という方々の感性は、我々庶民には決して到達しえない、すばらしいものがあります。例えば、谷川俊太郎さんはCMでも何でも引っ張りだこですが、その作品の「感性」には誰でも驚嘆するのではないでしょうか。我々と同じ日本語を操り、言葉そのものは決して日常使う言葉でしかないのに、書かれたものはまるで別世界のようです。谷川さんが宇宙人と呼ばれる所以です。


 さて、茨木さんの詩はよく知りませんが、この本を読めば、詩人らしい感性の鋭さは感じることができます。

 とくにおもしろいと思ったのは、ハングルと山形県の庄内弁との類似で、表形式で比較されています。その他にも、日本の地方方言とハングルとが類似する表現が多くあるようです。


 茨木さんは50歳代からハングルを学び始めたそうですが、日本語のルーツというものに想像を働かせながらハングルを学ぶのも面白いのではないか、と思いました。

絶対安全人生(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-05-21 22:28:25 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「絶対安全人生」という題でした。ポイントとなる文を要約しつつ抜粋します。

「生きている者は必ず死ぬ。先のことはわからない。これが人生における最大の当たり前、常識である。
 ところが、多くの現代人はこれらの常識を認めようとせず、思わぬことが起こると、他人や社会のせいにする。しかし、人生が危険なものであるのは本来であって、社会のせいではない。」

 話の発端は、公園で犬を放してはならないという規則についてで、池田さんは、「状況に応じて自由に善悪を判断すべきであって、規則に判断を委ねるべきではない」とも書いています。



 いつものことですが、なぜか池田さんは犬に関する話になると、「らしくない」文章になってしまいます。「・・べきである」とか「・・べきではない」という言い方は、本来池田さんは意識的に避けているはずです。「・・すべき」という当為の言い方については、「一体誰が誰に命令しているのか?」というように、その一方的な押し付けた言い方を嫌います。なぜなら「考える人間が行動する」ということは、誰からかの命令を受けて無思慮に従うことではなく、自ら考えて行動することでしかないからです。

 だから、上の文章では、「規則に判断を委ねるべきではない」ではなく、「規則に判断を委ねることで人生が安全になるのか、よく考えてみたらよい」というのが、池田さんらしい文章でしょう。

『語源でわかった!英単語記憶術』(文春新書)

2006-05-17 06:52:34 | 語学
 ドラゴン桜のモデルの教師が、英単語の記憶のために語源による理解を活用しているという話がありましたが、たまたま本屋で上記書籍を見つけ、面白そうなので購入しました。

 著者は学者ではなさそうで、どうも技術系の経済人のようですが、この本を読む限りでは、まるで言語の専門家です。ラテン語等にさかのぼり、単音節での意味から説き起こす説明は大変興味をかきたてます。


 池田晶子さんは「言葉は命」と言います。言葉がどのように作られてきたか、つまり語源を知ることは、生命の源を探るようなものでしょうか。


 池田さんが言っている「言葉は命」というのは、例えば「正しいとはどういうことか」というように、言葉が概念を明確に意味していることに注意を向けるというものです。もし「悪いことも正しいことも相対的でしかない」なんて言ってしまうと、「悪いこと、正しいこと、という言葉の意味内容自体は絶対的であり、万人に知られているではないか」と反論されます。つまり「正しいこと」が人によって意味内容が変わるはずはなく(そうでなければ言葉自体が成立し得ない)、言葉が絶対的ということは、それによって表現されるさまざまな事象やその価値も絶対的なもののはずです。だからこそ「言葉は命」なのです。

 正しいとはどういうことか、正しい行為とは何か、あなたは正しい行為をしているのかそれとも悪い行為をしているのか・・・と。

大変な格差社会(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-05-12 07:19:04 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「大変な格差社会」という題でした。ポイントとなる文を要約しつつ抜粋します。

「人が格差を問題とするのは、当たり前だが、それを格差と見るからである。所得もしくは暮らしぶり、金のあるなしを格差とする。しかし、どうしてそれが格差なのだろうか。どうしてそれが問題になるのか。
 もっといい暮らしがしたい、豪勢な暮らしがしたいと人は望む。そう望むまさにその心が、外に「格差」を見るのである。ゆえに格差とは、社会のうちに存在するものではなくて、その人の心のうちに存在するものである。人は自分の見たいものしか見ないというのは、いかなる場合でも真理なのである。」



 上の最後の文「人は自分の見たいものしか見ない」は、塩野七生さんの『ローマ人の物語』で何度も触れられるカエサルの言葉と同じです。ローマの時代から、天才の目からすれば、大衆というか普通の人というものはそのように見えていたのでしょうか。

 池田さんは、金のあるなしの格差を問題にする賤しい品性があるから、人間の品格には格差がある、そういう意味でなら格差社会の到来といえる、と皮肉った言い方もしています。「金に価値を置く賤しい品性と心に価値を置く貴い品性とどちらが格が上か決まっているではないか」と。


 ただ前提としては、「この国では食うに困る人はおそらくいない」ということがあります。資本主義国家とはいえ生活保護などの福祉制度があり、通常は最低限の生活が憲法上保障されています。しかし、食うに困れば「心に価値を置く」などと悠長なことは言ってられない、ということになるかもしれません。

 良寛や一休のような高潔な人の、貧しくも心豊かな生活を一般人が目指すことは、「清貧の思想」の中野さんも言う通り無理ですから、少なくとも「自分の人生において最も大事なものは何か」について、よく考えておくことだけはしておきたいものです。

国家機密と取材の自由

2006-05-06 10:25:35 | 時事
万歳!映画パラダイス~京都ほろ酔い日記「情を通じ」の西山事件とペンタゴンペーパーズ


 今週はGWで週刊誌は休みですので、気になるサイトからの話題です。上記リンク先は、ワイン日記を一杯書いている方経由で知ったサイトですが、京都の私大でマスコミ論を講義しているそうで、今回1回分の講義がまるまる掲載されていて、内容も非常におもしろいと思いました。

 話題にしているのは最高裁の有名判例で、有斐閣の憲法判例百選Ⅰにも掲載されている外務省秘密電文漏洩事件です。テーマはその判例百選にある題名通り、国家機密と取材の自由のいずれを優先するかというもので、最高裁は取材の方法が公序良俗に反するとして、記者を有罪としました。


 取材の自由は過去の最高裁判例でも、憲法21条(表現の自由)の精神に照らし尊重に値するとされています。しかし国家機密(国民を欺くような)を公序良俗に反する取材方法で得た場合、これを機密漏洩で罰すべきか、国民の利益に資するとして取材の自由を保護すべきか、難しい問題となります。

 上記サイトの著者は記者出身ということもあってか、記者側を擁護していますが、ポイントとなる文を以下に少し要約しつつ引用させていただきます。

「この事件に関し、3つの見解が(著者には)ある。第一はまず、政府というものは自分にとって都合の悪い真実を隠す本性があり、それを嗅ぎつけ暴こうとする記者と政府内協力者なしには、秘密は暴けないということ。第二は、西山記者が毎日新聞の紙面で正々堂々と紙面で勝負せず、政争の道具にしてしまい、報道の目的から外れた使い方をしたということ。第三は、個人的見解だが、役人と情を通じ性的な関係を結んで、情報を取ること自体何も悪くないということ。手段は本来問われるべきではなく、国民にとって有益な情報が得られれば、それは社会にとってきわめて健全な話になる。」



 さて、以上の著者の見解について、どう考えることができるでしょうか。

 最もひっかかるのは、第三の点かと思います。国民の利益に資するとすれば、本当に手段・方法は全く問われるべきではないのかどうか。機密漏洩自体の犯罪性は脇に置いといて、例えば窃盗、強盗(場合によって殺人になったり)などの犯罪行為での機密情報獲得であれば、手段・方法自体が犯罪ですから問われるべき行為でしょうし、上記著者見解もそこまで許容する趣旨ではないのだろうと推測します。

 問題は、犯罪としての構成要件にはならないが、公序良俗に反すると思われる手段・方法であるような事態が発生した場合に、我々一人一人がこの事件に対していかなる態度をとるか、です。


 池田さん的に言えば、善いことは善いし、悪いことは悪い、善い・悪いは法律に決めてもらうことではなく、既に私たちの内面に知られています。記者の公序良俗違反とされる行為は、たとえ国家機密を暴くためであっても、それが我々の内面に照らして、悪い行為としてしか受け入れられなければ、やはり公序良俗違反の判断も肯定せざるを得ないと思います。

 国民と国家の関係やジャーナリズムの役割を考えた場合に、上記著者の見解を支持する場合もありうるのかもしれませんが、私個人としては記者の行為を端的には肯定しかねるのが正直なところです。