哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

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子供がほしい(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-10-29 21:32:20 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「子供がほしい」という題でした。今回もタイムリーな話題で、「代理母」や「出産児取違え事件」に関連してます。



「自分の子供を欲するということは、血縁という価値に執着することではなかろうか。執着することは自然なことではない。

 人間は自身が自然な存在なのか不自然な存在なのかを言うことはできない。「自然」という概念以上に不自然な発明はないからである。「人間」が存在しなければ、「自然」も存在しなかったのである。」




 確かに、自分の子供を代理母に依頼してでも欲しがるというのは、その実現は自然にはできませんから、そのような執着は自然ではないでしょう。その意味で、自己の血縁に執着することは自然ではないように思えます。


 ただ、人間に限らず生物は、それぞれ危険を避けつつできるだけ生き残っていこうという生存本能がありますし、基本的に子孫を残そうとします。地球上の生物は、天災により絶滅した種もありますが、生物誕生以降生存本能のもと、いろいろ進化もしつつ子孫を残してきました。


 その意味では、あくまで「自然」の範囲でしょうが、生物には生と種の保存に対する執着はあるのではないかと考えられます。


 ただ人間の執着は、定義通りもっと不自然なようです。むしろ暴走しがちとまで言っていいでしょう。古くはピラミッドしかり、産業革命しかり、核爆弾しかり、人間のとんでもない執着は、早すぎる結末が訪れるまで続くのかも知れません。

無知の無知より(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-10-22 10:23:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「無知の無知より」という題でした。教育に関する話題で、題名の意味は、「(自分が本当は)知らないこと」を知らないより、「知らないこと」を知っている方がよい、ということのようです。



「自分は知っていると思って人に教える人は、いったい「何を」知っているのだろうか。「知る」とは、実際に役に立ってのみ、知ることであり得る。各種の知識を知ってはいるが、それを人生に役立てることができないなら、それを知っているとは言えない。ゆえに、人生のためと子供に教える人は、人生とは何なのかを知っていなければならない。知らずに教えているなら、自分は知らないということを知らないのである。」




 いわゆるソクラテスの「無知の知」を、そのまま池田さん流に表現されているわけですね。

 『「知る」とは、実際に役に立ってのみ、知ることであり得る。』と書いておられますが、確かに「表面的に」知るのと、「確信的に」知ることには違いがあるような気がします。


 そうすると、「人生に役立つように知る」とはどのようなものなのでしょうか。


 かつて、人生に役立たないのが哲学だ、とも池田さんは書いておられました。つまり、人生に役立たなければ「知っている」とはいえない、というのは実は、池田さん流の逆説的な言い方で、要するに人生に役立つように「知る」という事態がなかなか訪れないのではないか、そのために考えていくしかないのでは?と言っておられるのだと思います。


 なぜなら、人生=生存=存在自体が人間にとって、謎のままだからです。だから、今のところ「知らない」としか言いようが無い、というわけです。
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米原万理さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

2006-10-20 01:00:30 | 知識人
 今年の話だと思いますが、米原万理さんが50歳台の若さで亡くなられたと聞きました。なかなか面白い本をいろいろ書いておられたので残念です。


 さて、表題の本については米原さんの主著と聞いていながら読んでおらず、遅ればせながら最近読みました(角川文庫)。


 感想を一言で言うと、米原さんも含めて国際情勢に翻弄される子供たちの様子とその後の再会が感動的である一方で、民族主義や国家、イデオロギーに振り回される姿にはやや深刻にさせられました。


 この本には題名の短編を含めて3編ありますが、最も印象深かったのは、旧ユーゴスラビアの話(「白い都のヤスミンカ」)です。


 かつてユーゴスラビアは、多民族国家(5つの民族)で、4つの言語、3つの宗教も抱えるという、統治の難しい国家として知られていました。それがチトー大統領によって一つの国家として治められていましたが、80年にチトー大統領が亡くなって以降、一つの国家としての存続が徐々に難しくなったようです。


 実は私自身もユーゴスラビアの首都ベオグラードに行ったことがあり(86年頃)、その頃は既にチトー大統領は亡くなった後だったにもかかわらず、チトー大統領の顔写真の絵葉書があちらこちらで売られていた様子を覚えています。



 「白い都のヤスミンカ」では、その後のNATO空爆等の様子も少し触れられていますが、その現場に居る人間の視点から淡々と書かれているところが、かえって問題の深刻さを考えさせられます。


 民族と国家とイデオロギーというものが、池田さんがいつも仰る通り「観念」に過ぎないことについて、一体どうすれば思い知ることができるのでしょうか。

億万長者の責務(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-10-07 08:39:55 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「億万長者の責務」という題でした。



「人間にとって正しいお金の使い方とはどのようなものか。大金持ちの人々から、まず範を垂れてもらいたい。そのために、お金を使うことを法律で義務化するのはどうだろう。稼いだ分の半分を一年以内に使いきらないと、税金でもってゆくということにするのである。」




 いつも形而上か形而中で本質的な言葉を発する池田さんにしては、随分形而下に近い話でした。


 普段の池田さんの謂い方は、法律にしろ、税金にしろ、お金にしろ、国家という観念を前提に生み出したものだというものですから、法律でお金の使い方を規制するという発想は、かなり庶民の感覚に近づけて仰っているのでしょう。

 でも日本の法律でお金に関する規制をすれば、お金は規制のない海外へ逃げるだけですし、それをさらに規制しても、いたちごっこになるだけでしょう。

 庶民のお金への執着は、池田さんの予想を上回っていると思います。


 それでも本文の最後の方にある「税金は社会への寄付」という表現は、池田さんならではですね。税金を払うことを国民が名誉に思うだけで、社会は随分浄化するような気がします。



(来週の更新はお休みします)

男女は平等である(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-10-01 08:07:40 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「男女は平等である」という題でした。



「男も女も、生きている者は必ず死ぬ。完全に平等である。本当に大事なことにおいては、男女平等は最初から実現しているのである。何が問題なのだろうか。問題は、生活条件の改善、ならば改善すればよいのである。
 自分を性別と思い込むのは、自分を日本人と思い込むことの不自由と同じである。「哲学的には」、属性と本質というのが明らかに存在する。人間の本質は自由である。不自由になるのは、自らを属性と思い込む以外に理由はない。」




 「男女の性差による問題の一般化」は、池田さんにとっては「他人の問題」だそうです。そのような「属性」は「本質」ではないからです。

 上にも引用した通り、池田さんは「属性」と「本質」を分けて考えることを徹底します。「国家対立」も「宗教対立」も「民族問題」も「人種問題」も、池田さんに言わせれば、全て「属性」の問題であって、決して「本質」の問題ではないということでしょう。「嫌韓流」なども論外です。



 ただ、上の文で一点わかりにくそうなのが、「問題は、生活条件の改善、ならば改善すればよいのである。」というところでしょうか。

 「それが差別により、個人の力でなかなか改善できないから問題なんだ!」と言われそうですが、池田さんの「本質」的観点から言っているのは、そういうレベルではありません。


 人間は「本質」的に「自由」ですから、自ら人生を選択できます。問題が生活条件の改善であれば、まさに改善するのが目的だから、改善するように選択をすればよいのであって、「属性」の問題ではありません。

 この辺がわかりやすいのは、『帰ってきたソクラテス』のフェミニストやサラリーマンの章でしょう。
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