哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

年金

2012-02-28 06:55:00 | 時事
先日の報道で、多数の年金基金が資金を預けた投資顧問会社が、資金の9割の損失を出したという。預けた年金基金側は今後どうするのか知らないが、仮に投資顧問会社を訴えたところで、無い袖は振れないということにしかならないのだろう。しかし、そもそも国が運営している年金制度そのものも、その運用がうまくいっているとは思えないから、年金制度全体がかかえる事態はたいして変わらないのではないだろうか。


池田晶子さんは、年金保険料は払っていたそうであるが、結局年金をもらうことはなかった。年金に関する池田さんの文章を取り上げよう。


「食えるか食えないか、すなわち生きるか死ぬかということは、人生の価値とは実は関係がないということがわかるのである。ただ生きているということと、善く生きているということは、まさしく違うことではないか。ただ生きているだけの人にとって、生きていることが、どうして価値であることができるだろう。
この真実に気がつくと、ただ生きるため、とにかく生き延びるために画策されるこの世的なあれこれが、当然どうでもよくなってしまう。将来なんて発想も不可能である。だから年金だ税金だなんてのは規則だから払っているだけで、自分には何も期待していない。くれてやるものだと思っている。
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それにしても、二十五年後の年金ねぇー。みんな本気で二十五年後の自分の生活なんてもの、想像しているのだろうか。私にはそんなもの、あの世の生活を想像するくらいに不可能に近い。死んでいるならいないのだし、生きているならわからないからである。これって、恐るべき当たり前だと思いませんか。」(『41歳からの哲学』「やっぱり欲しいー年金」より)


池田晶子さんのいう、「恐るべき当たり前」は、年金によって老後の安寧を期待している多くの国民にはきっと通じないのだろう。しかし、実際のところ冒頭の事件だけに限らず、日本の膨大な財政赤字をみてもわかるとおり、実際に起きている事態は、年金制度の安定的運営なぞあり得ないことを物語っている。池田晶子さんの言うとおり、遠い将来のことはわかりっこないのだ。しかし、わかりっこないとはいえ、年をとってもし生きていれば、働く能力は衰えているだろうから、それを補完する可能性を用意していくことは、何もしないよりはいいのだろう。あくまで年金制度は、オプションのひとつとして気楽に捉えた方が良さそうだ。なにせ我々の多くは、池田晶子さんほどの覚悟はないので。






死刑

2012-02-20 22:50:50 | 時事
元少年の死刑確定が今日のトップニュースだ。このニュースの話題のされかたは、これまでの死刑判決とはかなり異なる。なぜなら、これまでの慣例的な取扱いでは死刑とはならない可能性が高いものについて、無期懲役を差し戻してまでして死刑になったからだ。テレビメディアの報道も、被告人の被虐待などの経歴を伝え、暗に疑問を投げかけているようだ。


池田晶子さんはかつて死刑囚と往復書簡を行い、雑誌に連載した。その死刑囚は、確か池田晶子さん逝去の後に処刑されたはずだ。その死刑囚は、まだ死刑判決が出る前だったようだが、池田晶子さんの書物を読んで、「何かがわかった」らしい。それで池田晶子さんに手紙を書いたそうだ。


「続けて、原典『ソクラテスの弁明』を読み、「はっきりとわかった」。「ただ生きることではなく、善く生きることなのだ」。だから、判決が死刑であっても控訴せず、このまま善く生きることで死んでゆけると、書いてある。
 これに対して、私は異を唱えたのである。もしも本当に善く生きる気があるのであれば、自分が知り得た真理と幸福を、他人にも知らしめるべきではないだろうか。したがって、「控訴せよ」。」(『死と生きる 獄中哲学対話』「あとがき」より)


死刑囚が、まさに死を間近に感じたときに「善く生きる」ということを考えることができたという、この逆説は感慨深い。今回の元少年は、あるいは今執行を待っていてしかも当分執行されることがないことがわかっている(刑務所内ではわからないか?)多くの死刑囚は、果たして残った時間をどう生きるべきと考えているだろうか。

ただあえて敷衍すれば、生きとし生けるものはすべていずれ死ぬのだから、我々も執行を待っていていつ執行されるかわからない死刑囚と同じようなものである。そのように考えれば、死刑囚として残る時間をどう生きるかということも、決して他人事ではないかもしれない。



日本人へ・百六「スーパー・マリオの大実験」より

2012-02-14 22:36:22 | 時事
 今月の文藝春秋誌の塩野七生さんの掲題連載では、ついに触れられた過激な言葉があった。


「ヨーロッパでは、考えていても口には出さない一句がある。それは、民主主義はもはや機能不可になったのではないか、という想いだ。」


 この後に、それを言ってしまっては終わり、との言葉が続く。しかし、ギリシャの問題でさえいまだ先が見えず、国民にさらに負担と苦労を強いる政策が国民によって支持されるはずもなく、民主主義の否定でしか国家が存続しえないというジレンマが今ここにある。

 民主主義が衆愚政にどのようになっていくか、実例を挙げて解き明かしてほしい、とも塩野さんは書いていたが、身近ではもしかしてこの日本が挙げられるかもしれない。日本の政治が今何も決められない状況に陥っているのは、誰の目にも明らかである。こうなったのは誰の責任かと言われたら、決められない政治家たちを選んだ我々日本国民自身である。増税等の負担増をかかげたら国民は必ず反対し、結果として実行できないマニュフェストに酔いしれた。


 それにしても、イタリアの首相をスーパー・マリオと呼ぶマスコミも、茶化してしるのか、期待しているのか。塩野さんは、スーパー・マリオは選挙の洗礼を受けないからこそ、大胆な改革ができるという。確かに、ギリシャでも国民投票をすれば、改革はとん挫して国家破綻となりかねない。つまり、国家の存続に必要な改革が国民の支持によってはなしえないのだ。とすれば、一体どういう政治体制がより良いというのか。ただとにかく、自分たちのことは自分たちで決めるからこそ理想の政治体制とされた民主主義が、21世紀の早いこの時期に危機的状況にあるとは言えそうだ。


病気と健康

2012-02-06 10:11:55 | 時事
インフルエンザに罹患した。普段からあまり外へ出かける方ではないのだが、先日乗った高速バスが原因だろうか。もう熱も下がったので、もういいだろうとは思うが、周りに感染させない配慮が必要だから、気を使う。

病気になると、健康であることのありがたみもわかる、とよく言うが、この点に関しては、池田晶子さんも同じことを言っている。しかし、そこから先は、やはり池田さんらしい謂いになる。


「そも健康とは、病気がない状態のことを言うのだろうか。だとしたら、病気とは何か。もしも病気とは、何らかの病名のことだとすれば、病名とは人間がつけたものであって、自然のものではない。病名をつけられて不安になったり安心したりするのは、したがって不自然である。不自然であることは不健康である。健康とは、自然であることという、これもまたひどく当たり前のことになるのではなかろうか。」(『41歳からの哲学』「人生を渡るための舟ー健康」より)


だから、年を重ねて弱っていくのも、病気になってしまうのも、健康で自然な流れにあることになる。病気を治そうとする治癒力も自然に備わっているのだから、結局生体というものが生成と破壊のバランスの上に成り立っているように、老化や病気も自然である状態の一形態とは言える。ガン細胞も、通常細胞の変異であるから、同じように自然の一形態であろう。しかし、病気に対して医学の進歩は様々な治療を通じて、人間を延命するよう効果を高めてきた。少しでも元気で長く生きたいという欲望を叶えてきたわけである。我々もその恩恵を受けてきた。さて、その恩恵をどのように生かすか。それが一番重要なのであろう。