哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

有名になりたくて(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-02-25 23:59:59 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「有名になりたくて」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。

「有名になりたいとは、他人に認められたいということである。しかし、自分を自分と認めるのは自分でしかない。自分を認めるために他人に認められる必要はない。なのに、他人に認められることを必要とするのは、自分で自分を認めることができない、自分というものがそもそも「ない」からである。
 ない自分を顕示する、自分がない人ほど自己顕示したがるという逆説が、ここにある。内容のある人に自己顕示は起こりようがない。
 名前だけで中身がないものをさして「有名無実」という。現代の「有名病」(有名になりたいという欲望)がまさにそれである。しかし、自らの仕事としての自らの名前に強い矜持を所有することを「名を惜しむ」といわなかっただろうか。」


 全くの一般人が「有名になりやすい」ということでは、現代のインターネット環境は隔世の感があります。今でもテレビを代表とするマスコミの影響は大きいものの、インターネット上で流行れば、マスコミに取り上げられ、有名になりやすいといえます。最近の例では『電車男』や『生協の白石さん』ですね。ブログではありませんが、一時期のオーディション・ブームも、一般人の有名病患者を増やしたかも知れません。

 もちろん池田さんの言う通り、ブログ等で無内容なものも多く、ない自分の自己顕示が多いのも事実ですね。そもそも日常生活上に起きる様々な出来事は、社会生活上も含めて無内容なものが多いわけですが、しかしその中で「普通に」生きつつ自らの内面を充実させるという、まさに座禅のような自己修練がなければ、有名になる以前に「自分の内容がない」ことになるというような、池田さんの言い方は確かにその通りだと思います。仮に内容があって有名になっても、その後の内容の維持も問題になります。
 ところで、内容の「ある自分」の内容が一体どんなものか、それについて池田さんは何も言っていませんが、そんなものは自分で考えなさい、ということなのでしょう。

自由と規律(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-02-18 18:58:14 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「自由と規律」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。

「人間は自由にすると悪いことをする、だから規則で規制しなければならない、と管理する側は思う。しかし、規則で規制したところで、悪いことをする人間は悪いことをする。逆に、善悪とは規則のことだと思うから、自分で善悪を判断しなくなる、できなくなる。自分で善悪を判断できない人間たちの社会が、善い社会になるわけがない。
 ソクラテスの言う通り、悪法も法である。悪法も法だから守らなければならないというのではない。この世の法なんてものに善悪はないという、あれは痛烈な皮肉(アイロニー)なのだ。」


 法律や規則に善悪の基準はない、ということを我々は日常の社会生活の中ではあまり思ってません。しかも、子供たちにはまず規則を守りなさいと言わなくてはなりません。この点については、子供たちはまだ自ら善悪の判断を行えるほどの知的能力が伴わないからではないから、と言えそうです。しかし、判断能力が伴ったら法律に関わらず自ら善悪を判断しなさい、と成長した子供たちに話す大人が居るとも思えません。とりあえず法律は守り、他人に迷惑をかけない範囲で好きなことをしなさい、と言うのがせいぜいでしょう。

 池田さんは、規則は尊重するが結果として守っているだけで、社会の規則には“私”が善悪を判断する自由を規制することはできないと言います。
 果たして一切の拠り所なく、我々は自ら善悪の判断ができるのでしょうか。そもそも言葉として既に「善悪」と言っているのだから、その概念を知らないはずはない、と池田さんはよく言います。しかし社会生活における各種規制(慣習も含めて)に慣れた我々には、やはり他者に善悪を決めてもらうのが楽だったのです。それだけものを考えていないにすぎないのですが。

ホリエモンなぜ悪い(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-02-12 00:30:20 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「ホリエモンなぜ悪い」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。

「善悪すなわち道徳とは、法を犯すか否かのことだと、人は疑っていない。もし不正が発覚しなければ、彼は今でも時代の寵児で、世間にちやほやされていたはずである。悪人ではなく、善人だったはずである。状況次第で人間の善悪が変わるなら、善悪なんてものがどこにあることになるのか。法律を変えたところで、悪い人間が善い人間に変わるわけがない。
 善悪は外にではなく内にある。この恐るべき当たり前に、人は気づかない。
 自分にとって悪いことを自分がしないように見張っていられるのは自分しかいない。「悪い」というのは、自分にとって悪いという以外のいかなる意味でもない。法律を犯すことが悪いことなどでは断じてない。」


 今日の話は、ソクラテスの話で必ず出てくる、「悪法も法なり」という言葉にも関連する話ですね。

 法律は道徳の最小限であるという言い方がよくされますが、法律も道徳も人の外部から強制する仕組みに変わりなく、悪いことは悪いことだから自分はしたくない、と思うのは「倫理」だと池田さんは区別しています。

 根本的に善悪の判断を我々はどこに持つべきなのか。想像するに、善悪の判断をすべて各人が自らの身に引き受けるのは、おそらく精神的にかなり大変なことだという気がします。我々凡人にはそのようなことは無理だから、法律や道徳や宗教などの仕組みが作られたようにも思えます。

 しかし善悪の判断を外に持てば、今回のように世間全体が間違えることが起きます。であるならば、先人の知恵を少しづつでも学び、すこしづつでも身の内に獲得していくしかありません。まるで禅の修業のように。

「清貧の思想」のこと

2006-02-10 06:14:00 | 時事
 日本国内の所得格差拡大について従来から出版・発言されている、橘木俊詔京大教授が、朝日新聞に「清貧の思想」再考として記事を書いておられました。簡単に記事内容を要約します。

「日本の精神的伝統としての清貧の思想は、物欲や金儲けに走らず、地位・名声・世俗的な出世を否定し、心の充実を求めることに価値をおく簡素な生活を理想とした。例としては、鴨長明、吉田兼好、良寛であるが、彼らは貧乏であっても文人であり、詩歌・散文を書くことによる心の満足で経済的苦痛を凌駕している。そのような才能豊かな生活は凡人には不可能であり、『清貧の思想』の著者中野孝次氏でさえ自分には無理と告白している。従って、ごく一般人にとっては経済的貧困は避けるべきであり、「清貧の思想」は、人がつつましく生きていけるだけの生活を送ることである、と再解釈する。さらに言えば、最近の拝金主義の風潮に抗する意味で、必要以上の贅沢生活を送らないことだと思う。」


 日本が格差社会になってきていることを早くから指摘していた橘木さんが、その冷徹な経済分析の一方で、新たな「清貧の思想」解釈をされていることに感銘を受けました。上記の要約には入れませんでしたが、一般人が経済的貧困に面すると盗みが増えるなど、ろくな社会にならないことも挙げておられます。

 禅の言葉で言えば、「知足」(足るを知る)あるいは「吾唯知足」(われただたるをしる)ということになるでしょうか。これは決して我慢をするという意味ではなく、与えられた物や今ある物に積極的に喜びを見出すことだそうです。
 このような先人の教えに素直に従うことこそ、我々凡人がまっとうに生活を送るための知恵なのだと再認識しました。

弁護士 宇都宮健児さん

2006-02-08 23:12:03 | 時事
宇都宮さん

 NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、宇都宮健児弁護士を見た。

 消費者金融被害者対策の専門家として、これまでテレビで何度か見たイメージは、弱気を助け強気を挫くというイメージにぴったりな、過激な言動が多く血気盛んな感じだったと思っていたが、今回のテレビで見たイメージは全く逆であった。おっとりした感じで、やさしそうで、多重債務に陥った被害者を決して責めない。そして依頼者に裏切られることも覚悟し、それでも被害者救済に奔走する。

 東大法ストレート合格、大学在学中司法試験合格という優秀な経歴でありながら、弁護士としては一旦落第したような過去をもつというのは、どこか中坊公平さんの話を彷彿とさせる。

 番組の中で「何のために仕事をしているのか」という問いに、「人のために役に立つこと」と言うのかと思いきや、そのようには答えず、自らの親がもくもくと仕事をして自分たち子供を育てたことをまず挙げ、まずは自らの立場でできることをこつこつとやり、その上で少しでも人の役に立てるようにできればよいというような答えをしたのには、やはり控えめながらいい話であった。

株取引知らない(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-02-05 19:06:28 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「株取引知らない」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。

「仕事して稼いで、普通に生活できているのなら、なぜそれ以上にお金がほしいと思うのだろう。たぶん「仕事」を「ビジネス」と言い始めたあたりから、人はおかしくなった。きょうびの人が「ビジネス」と言う時、はっきり「金儲け」と私には聞こえる。いきおいそれはギャンブルに似たものになっていく。
 そういう考え方がいかに狂っているか。私にとっての仕事とは、お百姓さんのそれに同じである。一本一本苗を植えてゆく。その日々の繰返しに飽きないことである。「商い」とは「飽きない」ことだと、尊敬する老職人から聞いたことがある。
 人々がギャンブル感覚で仕事をするような社会は、安定性を失う。まるでジェットコースターに乗っているような社会で、人は生きた心地がしないはずである。生活の糧を稼ぐという以上の欲をかくから、こういうことになる。
 資本主義社会は人類の業である。これはどうしようもない。だから私は、私さえ善ければいいのだと、かねてより心に決めているのだ。」


 昨今の株取引に絡む一連の事件をきっかけにした話ですね。確かに株で一攫千金を!とは、多くの方がそう思っているし、かなりの方が実際に株取引は行っていることでしょう。株の乱高下に乗じて儲ける人もいるそうですし。
 それにしても、定職をやめてデイトレーダーに特化して日々暮らしている人が存在することは、池田さんよりは株取引にまだ親しみのある我々一般庶民でもちょっと驚きです。しかも一人で何十億と稼いでいる?と聞くとなおさらです。

 先日NHKで3点同時取材とかで為替ディーラーを取材した番組を放映していましたが、そこでもデイリーにいろんなニュースが飛び交って相場が変動する様が、まるでジェットコースターに乗っているような緊張感でした。それにしても、為替相場で動くお金の9割が、実体経済と関係ない投機マネーというから、また驚きです。資本主義社会は、いつのまにか「投資」よりも「投機」中心になったんですね。

 さて、我々は何のために仕事をしているでしょう。

内村鑑三『後世への最大遺物』(岩波文庫)

2006-02-02 04:15:52 | 
図書カード:後世への最大遺物

 『代表的日本人』の著作で有名な明治キリスト者、内村鑑三氏の著作で、たまたま薄い文庫本で、しかも題名が仰々しいので、気になって読んでみました。

 著者の考える「後世への最大遺物」とは何でしょう。

 まず初めに頼山陽の漢詩を紹介しています。「千載青史に列するを得ん」つまり、後世に名を遺すことですね。これはこれで著者は肯定していますが、誰もができることではありません。

 次に遺物として何を残すかとして、金や事業を取り上げています。金も事業も、遺せば後世の役に立ちますが、これらも誰もができるとは限りません。

 そして最後に、最大遺物として著者が取り上げるのが、「勇ましい高尚なる生涯」です。これなら誰でもができるし、利益ばかりで害がないとしています。具体例として、二宮尊徳とあるアメリカ人女性の話を取り上げていますが、詳細については本を読んでいただくことにしましょう。

 この「勇ましい高尚なる生涯」というのは、言い換えれば、池田晶子さんのいう(あるいはソクラテスも言っていたという)「善く生きること」そのものではないか、とあらためて合点した次第です。