哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

日めくり池田晶子(番外編) 35

2008-07-28 08:07:25 | 哲学
 今回は再び番外編。本編の「日めくり池田晶子 4」に関連する言葉でもある。精神と身体の二元論はデカルトに始まるというが、その徹底度は池田晶子さんでさらに深まる。




35 「私」とは考える精神である。

 「私」とは考える精神である。断じてこの身体ではない。なぜなら、いいかね、身体から腕が一本失われたと仮定せよ。しかし、驚くがいい、「私」からは何ひとつ失われてはいないではないか。「私」は身体ではないではないか!(『ロゴスに訊け』「物質は非物質の物質的表現」より)




日本ノーベル大リーグ賞

2008-07-20 08:07:19 | 時事
 今週は、野茂秀雄投手引退のニュースが流れた。あまり野球に詳しくはないが、野茂投手が大リーグで活躍しはじめた当時の日本国中の熱狂はよく覚えている。報道で言われている通り、この人の活躍があったからこそ、大リーグのイチローや松坂がありえたわけだ。
 ノーベル賞はパイオニアに与えられるものだが、日本から大リーグに挑戦し、最初に成功したという意味で、野茂投手には日本ノーベル大リーグ賞を与えたいくらいだ。

 多くの報道やブログで言われている通り、野茂投手は半ば捨てられるように日本を去っていったのが印象的だった。当時から故障がちで、大リーグには通用しないだろうと誰もが思っていたのだ。にもかかわらず、野茂投手の淡々とした表情や、伝わってくる反骨精神もまた印象的だった。それが、確か初回登板は負けたものの、2回目から連続して勝ち星を獲得し続けた。そして初回勝利から徐々に日本での報道が過熱し、連続勝利でまさにフィーバーのようになり、日本で大リーグ中継までされるようになったのだ。


 何事もパイオニアこそ、最も重要なのだろう。池田晶子さんについても言うまでもないことだが。

日めくり池田晶子(番外編) 34

2008-07-15 08:07:12 | 哲学
 生と死の話がまた続く。いろんな事故や災害で行方不明となった人の家族や友人は、行方不明者がきっとどこかで生きているという信念を表明したりするが、これは、池田晶子さんによれば、そこに存在論、つまり存在と無の謎がある、という。



34 死体が存在しなければ、死は存在しない。

 その人は死んだ、彼はいなくなったと当たり前に言う、しかしそれは正確にはどういうことなのか、考えるとじつは誰にもわからないので、それで、とりあえず、肉体の消滅をもって死とするということに「決める」のである。死とは社会的な取決め以外のものではないである。(『ロゴスに訊け』「すべての死者は行方不明」より)



日めくり池田晶子(番外編) 33

2008-07-08 08:07:04 | 哲学
 先日大地震がまた来たが、地面に立って生活しているという地面への信頼から成り立つ日常が、実は根拠のない信頼によるということが、地震という非日常で暴かれる、と池田さんはいう。




33 非日常とは、我々の生が、そのまま死であるという当たり前に、我々を目覚めさせる経験である。

 かくも当たり前なことを、日常生活において人は忘れている。「忘れて」いるのであって、本来は、非日常こそが日常なのである。生まれた限り、人は必ず死ぬからである。それがいつどのようしてなのか、わからないだけである。(『勝っても負けても』「大地震に想う」より)





日めくり池田晶子(番外編) 32

2008-07-02 08:06:29 | 哲学
 「日めくり池田晶子」本編の選から漏れた言葉も結構あるので、これからは「番外編」として、適宜紹介していこう。

 今回は、内容的には「日めくり池田晶子 5」と同じことを言っているのだが、民族や血はより現実的と思われがちであり、あえて繰り返して取り上げる意味があるであろう。いまだに民族問題は、パレスチナやコソボ紛争、アフリカの民族紛争など、世界に強力に蔓延しているからである。




32 人は、その民族に生まれないことは選べなかった。しかし、だからと言って、民族主義者にならないことを選べないわけではない。

 もしも彼らが本当に、彼ら言うところの「われらの自由」を求めるのなら、そのような偶然による拘束を、自覚することによって脱し、自分とは血でも民族でもないのだと、知ることでしかないのだが。(『考える日々Ⅲ』「生きられないから自由をよこせ」より)