哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『プラトンの哲学』(岩波新書)

2010-10-24 07:26:26 | 哲学
 『プラトンの呪縛』を読んだことをきっかけに、再度表題の本を読み直してみた。新書という、分量の少ない本ながら、大変素晴らしい本であることを再認識した。数多くある岩波新書の中でも絶対に読むべき数冊の本に必ず挙げたい。

 著者の藤沢令夫氏と池田晶子さんとは、あえていえば盟友とも言ってもいい。これは『2001年哲学の旅』(新潮社)での二人の対談を読めばわかる。二人は、ほんとうの哲学を世に訴えるための役割分担を事実上行なっていたそうなのである。


 さて表題の本は、プラトンの著作を歴史順に追いながら、その哲学の体系構築と深化をトレースしている。その中でも印象深いのは、やはり前半のソクラテスについての話であろう。「無知の知」という有名な言葉があるが、自分が「知らない」ということを「知っている」という言い方の言葉の簡単さとは、まるで異なる高次元の覚悟を言っているのだということをしっかり認識したい。


「あることがよいことだと「知って」いながら行なわない、というようなことは、ソクラテスにとってはそもそもありえないことであった。それは要するに、ほんとうに「知って」いないのである。同様に、悪いことと「知って」(わかって)はいるがやめられない、という言い方には、「知る」(わかる)ということのルーズなとらえ方に寄りかかった甘えがある。やめられないのは、ほんとうに「知って」(わかって)いないからだとソクラテスは指摘して、その甘えを禁止する。」(P.44-45)


「誰ひとり死を知っている者はいない-死は人間にとって、あらゆるよいもののなかの最大のよいものなのではないか、ということさえ知らないのに、人びとはあたかもそれが最大の悪いことであるとよく知っているかのように、死を恐れる・・・よいか悪いかわからないがゆえに、それに対する感情の発動が自然に停止されるというのは、ソクラテスの「無知の知」の構えが並大抵のものではないことを告げている。」(P.53-54)


 藤沢氏も書いている通り、「ふつうの人」はわからないから怖いと思うが、ソクラテスはわからないものに感情を持ちようがないというわけだ。
 上に引用した文章と同様の内容は、池田さんの著作にも繰り返し書かれていることだが、それでも本当によいことを「知って」(わかって)行なえているかというと、やはり簡単にできることではない。


 そして、表題の本の冒頭には、古代のアテナイ市民に対してソクラテスが向けた言葉が、まるで現代の私たちに対して向けられているかのように投げかけられている。


「金や評判・名誉のことばかりに汲々としていて、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂をできるだけすぐれたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか?」(『ソクラテスの弁明』)(P.2)



『「七人の侍」と現代』(岩波新書)

2010-10-21 00:03:30 | 
 映画史に残る傑作で日本を代表するものといえば、「七人の侍」がまず選ばれるようだ。この映画について多面的に分析した表題の書が、今年発刊されていたことを最近知り、さっそく読んでみた。

 この本を読んでいて痛感したのは、映画というものは、それが上映された時代背景といかに密接につながっているか、ということだ。その時代背景を知ることで、映画が描きたかったことがより分かるし、そもそもその時代の空気というものが、この映画そのものをとりまく空気みたいなものなのだ。

 映画の上映が1954年という、日本が独立を回復して間もない時期であり、敗戦の爪あとが残っていて、まだ戦災孤児も多い一方、国際情勢から日本が再軍備を始める最中だったという。侍の一人が孤児であったことがわかる場面や、村人が団結して外敵と戦うというコンセプトが時代と密接につながるようだ。
 ここで思い出したのは、「ミュンヘン」という映画のラストで、ワールド・トレード・センタービルが大写しになるシーンだ。この映画のテーマそのものは1970年代の事件なのに、上映された時代における我々は、何の説明もなくとも9.11のことだと理解する。


 この本で一番印象に残った箇所は、少し前に別の話題(シンドラー関連)のときにも紹介した、野武士の捕虜を民衆が惨殺したシーンに関するところだ。この本の記述でさらに鮮明に思い出したのだが、一家全員を皆殺しにされた老婆がこの捕虜を殺そうとするシーンが確かにあった。このシーンに関する著者の記述を、以下に紹介したい。


「個人的なことであるが、わたしは同じような澄みきった眼差しをかつて見たことがあった。ベイルートの一角にあるシャティーラのパレスチナ難民キャンプを訪れ、1982年の大虐殺で三人の息子たちを惨殺されたという母親に紹介されたときであった。彼女の眼差しはもはや地上の何ごとをも映し出していないように思われた。わたしは黒澤明が短いショットではあるが、この老婆の場面を戦の途上に挿入したことを、秀逸なる演出だと思う。」(P.133-134)


 この「澄みきった眼差し」は、心に重くのしかかる。敗戦後間もない時期であれば、日本でも同じような境遇の人たちが、もっと身近に居たことだろう。

 人類史において戦争は依然なくなることはなく、同じ境遇の人を、戦いの双方で作り続けている。果たしてこのような人たちに、相手を許すべく寛容を説くことがどこまでできるだろうか。

『プラトンの呪縛』(講談社学術文庫)

2010-10-16 02:11:11 | 哲学
 立花隆氏が「社会改造思想の間違いの源泉」としたプラトンの『国家』の“解毒剤”として紹介している本なので、読んでみた。前半では、プラトンがいかにナチスの思想に取り入れられたかという背景を綿密に追っている。印象深いのは、当時のドイツにおける知識人の貴族主義であり、大衆を隷属させて当然と思う知識層があったことだ。ナチスや共産主義が台頭する20世紀初頭の政治の混迷状態が、正当性の権威付けのためにプラトンを持ち出したようだ。

 そして後半では、前半で取り上げた考え方の批判をいろいろと取り上げる。ナチスに取り入れられやすいがゆえ、やはりプラトンは批判の対象である、題名になった章がある著作のポパーも、プラトンに対する批判者として取り上げられる。しかし、最後まで読んでみると、著者の考えはプラトンに好意的であり、安心した。結局著者は、プラトンの考え方を、現代の自由主義・民主主義に対する警告として取り上げているのだ。

 最終章の「警告者としてのプラトン」から少し抜粋してみよう。


「「好きなように生きる」ということ自体、改めて基礎づけられる必要のない究極の価値であるという立場が権利を徳に優先させ、「平等な承認」を要求する結果になるとすれば、プラトンはそれに対して改めて根拠づけを要求することであろう。・・自由主義や民主制に対して「何のためか」という問題を突きつけ、それらが自らの限界を自覚し、明確に定式化することを求める。プラトンにおいてはすべてを可能にし、すべてに根拠づけを与えるのは「善のイデア」であったが、正に、「何のために」ということを執拗に問いかける点に警告者プラトンの真骨頂がある。」



 この著書は、解毒剤というよりも、共産主義崩壊後、かえって混迷している自由主義と民主主義を掲げる政治体制に対する、一服の清涼剤というべきだろう。但し、決して混迷から簡単には抜け出せないことを自覚させる重い薬でもある。

塩野七生さんの「日本人へ」90

2010-10-11 00:28:28 | 時事
 今回の表題コラムは、最近笑えた話として、楽天やユニクロで社内公用語を全て英語にするとしたことを挙げていた。外国語を使わざるを得ない場合に、常に頭のスイッチを切り替えなくてはならないストレスがあるし、創造性のある思考は母国語で行うのが自然であるという。社内で日本人同士も英語で挨拶をしなくてはいけないような滑稽さは、むしろ海外の経営者なら苦笑するだろう、と指摘して結んでいる。

 確かテレビの報道で楽天の社長が、社員の「英語だと微妙なニュアンスが伝わらない」という意見に対し、英語で「そんなことはない」と答えたシーンがあった。報道では、詳細がわからないので、他にどんなやり取りがあったかは知らないが、社長はどこまで社員に求めるのか、あるいは社長と社員同士のスタンスの違いは解消したのだろうか。

 塩野さんのコラムに書いてある通り、日本語で考える微妙なニュアンスまで全て英語で表現しようとすると、どうしても壁があるし、何よりも創造力の妨げになりかねないという指摘はもっともだと思う。外国在住の長い塩野さんでさえそうなのだから、日本にいていくら英語を勉強しようとも、その点は変わらないだろう。

 ただビジネス上の取引に創造力はいらない、という考えであれば、英語は単なる取引上のコミュニケーション手段に過ぎないのだから、社内を英語にしても一向に構わないように思える。要するに創造的な仕事は社長が全部やり、全てトップダウンで行うスタイルの企業なら、塩野さんの心配も不要なわけだ。社員としては、頭の中を英語にスイッチを切り替えるストレスはあるが、日本に居ても企業内の部署によっては英語でのビジネス遂行が当たり前のところも結構あるので、会社用語の違いと思えば何とかなりそうかもしれない。

 しかし、塩野さんの指摘が該当するのは、商品開発など創造力を要する部門だろう。創造性を発揮しないといけない場面で、日本語の打ち合わせができないということは、創造性の貧困に繋がる可能性があるのかもしれない。

ノーベル賞をとるためには??

2010-10-10 08:53:53 | 時事
 テレビの報道内容で「おかしい」と思うことは少なくないが、最近ではノーベル賞の日本人受賞の話題で、「ノーベル賞をとるためには、どうすればいいか」などと発言する例が多い。挙句の果ては、最近の科学関連の財政支出が少ないとか、他国はここ数年科学関連の支出は増えているのに日本は横ばいだとか、日本ももっと金をかけなくてはいけないかのような議論に誘導しているかのようだ。

 今回の日本人の化学賞受賞は70年代の研究らしいが、果たしてその当時に日本は他国と比較してどれだけ多く科学関連に財政支出していたというのだろうか。確か、昔々の物理学賞受賞のときだって、金のない日本人が頭脳で獲得したノーベル賞と言われたはずだ。要するに金の問題にすりかえるのはおかしいのではないか。ここ数年日本の科学関連の財政支出が少ないのは、他国に比較しても巨額な財政赤字のためなのだから、当然であろう。論ずるのであれば、金の問題ではなく教育の問題ではないか。

 そもそもノーベル賞をとることを目的のように考えるのが、本末転倒であることは誰にでもわかるだろう。ただ今回の日本人受賞者は、ノーベル賞をとることを夢として頑張ったという。ノーベル賞を受賞することは、利害関係のない第三者が、功績をすばらしいと誉めてくれることだから、確かにうれしいことだろう。誉めることや誉められたいと思わせることは、能力を引き出す手法ではあるのだから。

『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』(文春新書)

2010-10-03 11:15:51 | 
 “知の巨人”立花隆氏と“インテリジェンス”佐藤優氏によるブックガイドだ。両者とも日本を代表する知識人であり、膨大な読書量を誇ると思われるが、読んでみて面白いのは、立花氏と佐藤氏の意見の違いが至る所にあるところだ。最新科学を最も敬愛する立花氏に対し、神学部出身で共産圏で仕事をした佐藤氏の方が古典をより重視しているようだ。立花氏と佐藤氏に共通するのは現代日本政治に深く関わった点だろう(関わり方が正反対だが)。しかも佐藤氏が形而上学を重視する言い方をしたところ、立花氏が形而上学を否定するくだりがある。立花氏はどこまでも科学好きなのだ。


 そんな立花氏について、池田晶子さんも幾度か言及している。

「立花隆さんという人はおっちょこちょいな人だなあ。・・政治や経済、せいぜいインターネットくらいまでなら、調査とデータとデータ分析で、わかりたいことはわかるだろうが、こと、「死」、生きているというまさにそのことにおいて誰ひとりわかるわけのない死について、調査とデータとデータ分析でわかるだろうと思って頑張っている立花さんは、ちょっと気の毒みたいだ。」(『残酷人生論』「生死とは論理である」より)



 ところで、表題の本の中でひとつ気になったのは、プラトンの『国家』を「社会改造思想の間違いの源泉」として紹介していることだ。プラトンの『国家』は、ナチスなどのファシズムを肯定する根拠となる思想として利用されたそうだ。そして、その「プラトンの『国家』への解毒剤」として佐々木毅氏の『プラトンの呪縛』を挙げている。

 小ブログとしては、解毒剤よりも強力な劇薬として池田晶子さんの著作を挙げたいところだが、もう少し安価なジェネリックとして藤沢令夫著『プラトンの哲学』(岩波新書)を付け加えておきたい。

 

固有の領土とは?

2010-10-01 22:08:08 | 時事
 領土問題で、よく「固有の領土」という主張があるが、これは何を意味するのだろうか、不思議に思うことがある。よく出てくる話に、古い資料で日本人がその地域や島に住んでいた、とかいう主張がある(それに対して今度は他国がもっと古い資料を持ち出し、自国民がもっと古く支配していたなどと反論してきたりする)が、そもそも国家の輪郭も古くなればなるほどあいまいになるし、古い時期の国家を民族に置きかえても、そもそも民族という括りならば世界的に移動することも多く、民族にとっての「固有の領土」という言い方が果たして正当なのだろうか。

 日本は島国だから民族的に移動は少ないようにみえるが、そもそも日本も決して単一民族ではないし、古い地図では北海道は載っていない。もしかして、北海道はアイヌ民族固有の領土だから、日本固有の領土なのだろうか。


 領土の話はひとえに、現在の実効支配による国境の確定の意味しかありえないのではないだろうか。過去の経緯は「固有」かどうかではなく、単なる現実の実効支配の大義名分や手続的正当性の主張にすぎないのだろう。例えば、北方領土をいくら固有の領土と言ってみても、ソ連(ロシア)が戦争で事実上獲得している以上、「固有」の意味は空虚である。


 まあ、池田晶子さんに言わせれば、国家自体が観念的なものだから、国境だって観念でしかないのだろうが。